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上東遺跡(じょうとういせき)は、岡山県倉敷市上東にある、弥生時代後期から古墳時代前期を中心とする集落遺跡[1]

概要

倉敷市東部の足守川西岸にある、弥生時代から古墳時代を中心に、自然提上に営まれた集落遺跡。吉備国の中核的地域を担っていたとされる。竪穴式住居の他、製塩炉、波止場状遺構などが発見されている。9,608[注 1]個の桃核の他、多数の土壙土器木製品が、当時の河口近くに設けられていた波止場状遺構の、船溜まりを形作る突堤の南側から出土している。この波止場状遺構は地表下70cmで発見され、幅は14.5mから4m、少なくとも長さは45mほど、高さは2mほどになる。粘土、また当時最新の技術である敷粗朶を用いて築かれている。出土した土器は、発達した頸部に太い条線文をへら書きした壺と大型器台によって構成されているという特徴を持ち、「上東式」と呼ばれている。また、航海安全祈願祭を行った際の土器も含まれていると考えられており、出土した土器の中には絵画文土器があった。このように、波止場状遺構は古代吉備国の港湾施設の一部として重要な位置を占めていたと考えられている。波止場状遺構の発見は、一支国であったとされている原の辻遺跡に続き、国内二例目の発見である。[1][2][3]

上東地域では、昭和20年代の田畑の地下げ等の際に、多数の土器が出土していた。この頃から、出土される土器がその特徴を基に、「上東式」と呼ばれるようになったとされている。その後、昭和40年代から50年代にかけて、山陽新幹線やそれに伴う都市計画道路の建設に伴う発掘調査で、さらに具体像が明らかになった。その後平成に入り、主要地方道箕島高松線の建設に伴う発掘調査を開始。さらに、弥生時代の土器棺墓群や古墳時代の水田などの遺構、弥生時代の人間の顔が表現された分銅型土製品、鹿角製の管玉、漆入りの土器などの遺物、土器棺の中からは稀有であるも発見された。[4]

この遺跡で出土した桃核は、水辺の祭祀に使用されたと考えられ、この習俗は中国からの影響が指摘されている。一つの遺構から出土した数としては、全国でも群を抜いて多い。この桃核は、纏向遺跡でも約2,800個出土されている。このことから、古くから岡山は桃とのつながりが深く、後の桃太郎の伝説にもつながったとする考えもある。[1][5]

アクセス

[1]

脚注

注釈

  1. ^ 9,606個とするものもある。

出典

  1. ^ a b c d 上東遺跡|たびおか-旅岡山・吉備の国-”. たびおか-旅岡山・吉備の国-. 2019年12月31日閲覧。
  2. ^ 上東遺跡 - 岡山県ホームページ”. 岡山県. 2019年12月31日閲覧。
  3. ^ 上東遺跡(じょうとういせき)とは - コトバンンク”. コトバンク. 2019年12月31日閲覧。
  4. ^ 12861_1_上東遺跡.pdf” (PDF). 全国遺跡報告総覧. 2019年12月31日閲覧。
  5. ^ 上東遺跡出土の桃の種 - 岡山観光コンベンション協会”. おかやま観光ネット. 2019年12月31日閲覧。

関連項目

外部リンク