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ロウアイに関しては78658477版より引用。 ロウアイが建国した国家、アイ国。
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2020年8月11日 (火) 02:15時点における版

秦 紀元前239年秦王政8年) - 紀元前238年(秦王政9年) 秦
首都 不明
不明(?)
前239年 - 前238年 嫪毐
変遷
建国(より独立) 前239年
嫪毐の乱鎮圧により滅亡前238年

(あいこく)は中国・戦国時代の末期に存在した国家(紀元前239年 - 紀元前238年)。嫪毐が建国し[1]、翌年にに対して反乱(嫪毐の乱)を起こすが[2]相国昌文君昌平君により鎮圧され[3]、滅亡した。領土は嫪毐の封地であった太原郡汾河以西である。

歴史

建国した嫪毐巨根で知られ、宴会の余興として自らの一物を軸に馬車の車輪を回して見せたという。その特長ゆえに、秦の宰相呂不韋に見出された。

呂不韋は秦王政の母の趙姫(太后)と長年不倫関係を続けていたが、淫乱な太后を老年に差し掛かった彼が満足させることは難しくなり、同時にその関係は非常に危険なことであった。そこで関係を清算したがっていた呂不韋は、自身の身代わりとして彼を後宮に送り込んだ。王以外の男性で後宮に出入りできるのは、男性器を切除した宦官のみであり、巨根が売り物の嫪毐が性器を切除しないまま後宮に入れるにあたり、を抜き取るなどして宦官のような容貌に変えさせ、さらに宮刑を執行されたという記録をでっちあげるなどの裏工作をした。

呂不韋の思惑通り、嫪毐は後宮に入って太后の寵愛を受け、2人の息子を儲けた。やがて、太后の後ろ盾をもとに次第に権勢を握った。

紀元前239年、始皇帝の弟、が反乱を起こし、鎮圧された[4]。その後に嫪毐は長信侯に封じられた[1]嫪毐太原郡汾河以西を国と宣言し、独立した[1]

しかし、房事での出世は周囲の評判が悪く、密告により政に知られることになって、内偵により太后との密通が露見した。

嫪毐御璽及び太后の印璽を盗み出して、兵を集めて反乱を起こそうとした[2]。しかし、既にそれに備えていた政の命を受けた相国である昌平君昌文君によって、咸陽で返り討ちに会った[3]嫪毐は逃亡したものの、捕らえられて車裂きの刑に処され、その一族や太后との間のふたりの息子もことごとく処刑された[3]。この時点で国は滅亡した。

脚注

注釈

引用

  1. ^ a b c 《史記・巻六・秦始皇本紀》:嫪毐封為長信侯。予之山陽地,令毐居之。宮室車馬衣服苑囿馳獵恣毐。事無小大皆決於毐。又以河西太原郡更為毐國。
  2. ^ a b 《史記・巻六・秦始皇本紀》:四月,上宿雍。己酉,王冠,帶劍。長信侯毐作亂而覺,矯王御璽及太后璽以發縣卒及衛卒、官騎、戎翟君公、舍人,將欲攻蘄年宮為亂。
  3. ^ a b c 《史記・巻六・秦始皇本紀》:王知之,令相國昌平君、昌文君發卒攻毐。戰咸陽,斬首數百,皆拜爵,及宦者皆在戰中,亦拜爵一級。毐等敗走。即令國中:有生得毐,賜錢百萬;殺之,五十萬。盡得毐等。衛尉竭、內史肆、佐弋竭、中大夫令齊等二十人皆梟首。車裂以徇,滅其宗。及其舍人,輕者為鬼薪。及奪爵遷蜀四千餘家,家房陵。
  4. ^ 史記』秦始皇本紀:八年,王弟長安君成蟜将軍撃趙,反,死屯留,軍吏皆斬死,遷其民於臨洮。将軍壁死,卒屯留蒲鶮反,戮其屍。