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新しいページ: 「'''陳亨'''(ちん こう、生年不詳 - 1400年)は、初の軍人本貫寿州。 == 生涯 == 元末に揚州万戸となった。濠州朱元璋に従い、鉄甲長とされ、千戸に抜擢された。1368年洪武元年)、徐達北伐に従い、東昌を守った。元軍が数万の兵でにわかにやってくる…」
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'''陳 亨'''(ちん こう、生年不詳 - [[1400年]])は、[[元 (王朝)|元]]末[[明]]初の[[軍人]]。[[本貫]]は[[寿州]]。
 
== 生涯 ==
元末に[[揚州 (古代)|揚州]]万戸となった。[[濠州]]で[[朱元璋]]に従い、鉄甲長とされ、千戸に抜擢された。[[1368年]]([[洪武]]元年)、[[徐達]]の[[北伐]]に従い、[[東昌府|東昌]]を守った。元軍が数万の兵でにわかにやってくると、陳亨は東昌を固く守り、奇兵を出して誘って元軍を破った。[[1369年]](洪武2年)、[[大同府|大同]]を守った。功績を重ねて燕山左衛指揮僉事に進んだ。しばしば塞北への出征に従い、北平都指揮使に転じた。[[1398年]](洪武31年)、[[建文帝]]が即位すると、陳亨は都督僉事に抜擢された。
 
[[1399年]]([[建文]]元年)、[[靖難の変]]が起こると、陳亨は劉真・卜万とともに大寧を守った。兵を移して松亭関に進出し、沙河に駐屯し、遵化を攻めようと図った。燕王[[永楽帝|朱棣]]の軍が兵がやってくると、陳亨は松亭関に退いた。このとき[[李景隆]]が50万の大軍を率いて燕王の本拠である[[北京市|北平]]を攻めようとしていた。北平の軍勢は少数であり、建文帝側の大寧行都司の管轄する興州・[[営州]]の二十数衛の兵は、みな西北の精鋭であった。また[[朶顔衛]]・[[泰寧衛]]・[[福余衛]]の[[ウリヤンハイ三衛]]や元の降将の率いる北方民族の騎兵は驍勇で知られた。卜万は部下を率いて李景隆の軍と合流した。燕王朱棣は彼我の形勢の差を恐れて、一計を案じて陳亨を欺き卜万を捕えようと、劉家口の間道から大寧を速攻した。陳亨と劉真は松亭関から大寧の救援に向かおうとした。陳亨は道中で大寧が陥落したと聞き、指揮の徐理・陳文らとともに燕王に降伏しようと図った。陳亨は夜に2回の鼓を打ち、劉真の陣営を襲撃した。劉真は単騎で広寧に逃走し、陳亨らは兵を率いて燕王に降った。燕王朱棣は建文帝側の諸軍と三衛の騎兵を攻め下し、寧王[[朱権]]を連れて北平に帰った。
 
陳亨は燕王側で従軍して、たびたび建文帝側の軍を破った。[[1400年]](建文2年)、[[白溝河の戦い]]で、陳亨は重傷を負った。[[済南府|済南]]を攻撃し、[[平安 (明)|平安]]と鏵山で戦い、これを撃破した。陳亨の傷は重く、輿で北平に帰された。都督同知の位に進んだ。燕王朱棣が軍を返すと、自ら陳亨の邸を訪れて見舞った。この年の10月、陳亨は死去した。[[1402年]](建文4年)、永楽帝が即位すると、涇国公に追封された。[[諡]]は襄敏といった。
 
== 子女 ==
* 陳恭(長、都督同知の位を嗣いだ)
* [[陳懋]](末子)
 
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[[Category:元代の人物]]
[[Category:明代の人物]]
[[Category:14世紀の軍人]]