アフマド・シャー (ガージャール朝)

アフマド・シャー1898年1月21日 - 1930年2月21日)は、ガージャール朝第7代シャーであり、かつ最後のシャー(在位:1909年 - 1925年)。父モハンマド・アリー・シャー帝政ロシア亡命すると、シャーの座に即位した。

アフマド・シャー
احمد شاه قاجار
ガージャール朝
シャー
在位 1909年7月16日 - 1925年12月15日

全名 ソルターン・アフマド・シャー・ガージャール
出生 1898年1月21日
ペルシャタブリーズ
死去 1930年2月21日
フランスの旗 フランス共和国ヌイイ=シュル=セーヌ
家名 ガージャール家
王朝 ガージャール朝
父親 モハンマド・アリー・シャー
母親 マレーケ・ジャハーン
宗教 イスラム教シーア派
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生涯 編集

アフマドが孔雀の玉座の座に進んだのは、父モハンマド・アリーがロシアに亡命した1909年7月16日である。父モハンマド・アリーは、イラン立憲革命の転覆に務めようとしたが、タブリーズ包囲戦の失敗により、立憲派の不興を買ったため、亡命を余儀なくされた。

アフマド・シャーが統治していた時代のペルシャは、内外ともに不安定な時代だったといえる。まず、国内面に着目すると、第二議会が開催されていたが、立憲派によるテヘラン奪回直後から続いていた穏健派と革命派の対立が顕在化し、議会外の武装闘争、暗殺の応酬にまで及んだ[1]

対外面では、前世紀から続くイギリスロシアの対立が引き続き、継続していた。第二議会は、赤字財政の解消に取り組んだが、第二議会が財政顧問として招聘したモルガン・シャスターは、ロシアとの対立を深めていった。そのため、1911年11月には、ロシアは、シャスターの罷免を要求し、翌12月には、ロシア軍がイラン北部に軍事侵攻することで、イラン立憲革命は終焉を迎えた[1]

その後のイランは、1907年にイギリスとロシアの間で締結された英露協商に基づき、それぞれの勢力範囲へと転落し、アフマドのシャーの威厳はほとんど消滅し、イラン全土が事実上、無政府状態となった。その中で、各地方は次々と地域蜂起の動きが生じた(ジャンギャリー運動など)。ジャンギャリー運動は、イギリスとテヘラン政府の手によって、1919年にはほぼ壊滅状態に追い込まれたが、イラン国内では反英運動のムードが高まるとともに、ジャンギャリー運動を率いたクーチェク・ハーンボリシェヴィキとの接触を図り、イランは、ソ連とイギリスの勢力争いの場と化していった[2]

このような無政府状態の中で登場したのが、レザー・パフラヴィーである。1921年に、クーデターを敢行して軍事大臣に就任すると、レザーは自らの意向に沿う形での軍事改革を実施し、アフマドの実権をほとんど奪った。1923年、レザーは首相に就任。 1925年10月31日国民議会は5対85の大差で王朝廃止を決議[3]。同日、アフマドは皇太子とともに特別列車でフランス亡命した[4]。翌月、議会はレザーの国王就任を認め、1926年4月25日、レザーの即位式が行われた[5] 1930年、アフマドはパリの近郊であるヌイイ=シュル=セーヌで病没した。

脚注 編集

  1. ^ a b 永田雄三編『新版世界各国史9 西アジア史Ⅱ イラン・トルコ』山川出版社、2002年。ISBN 4-634-41390-6  pp. 363-369
  2. ^ 永田雄三編『新版世界各国史9 西アジア史Ⅱ イラン・トルコ』山川出版社、2002年。ISBN 4-634-41390-6  pp. 412-422
  3. ^ 「議会、カジャール王朝廃止を決議」『大阪毎日新聞』1925年11月2日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.631 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 「首相リザ・カーンが国王に推される」『時事新報』1925年12月14日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.631 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 「リザ・カーンの即位式を挙行」『中外商業新報』1926年4月25日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.631 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

関連項目 編集

外部リンク 編集