クジャタ

イスラームの宇宙観における世界牛

クジャタ(誤名)[2]、より正しくはクユーサーアラビア語: كيوثاء‎, Kuyūthā)等は、中世イスラーム宇宙観により伝承される世界牛。

世界牛。カフ山脈英語版に縁どられた円盤状の大地を担い、巨魚(バハムート)の上に立つ。中世イスラームの宇宙像。
カズウィーニーの宇宙誌『被造物の驚異英語版』のオスマン・トルコ語訳本『Acaib-ül Mahlûkat』。1553年頃。アメリカ議会図書館[1]

神が創造した巨大な牡牛で、大地を背負う天使と、その岩台を担っている。牡牛の下を支えるのは巨魚(巨鯨)バハムートと言われている。

4万個の目、耳、鼻、口、4万本の歯、足を持つと、カズウィーニーの宇宙誌『被造物の驚異と万物の珍奇英語版』に記載されているが、どの部位・器官をどの本数・個数で持っているかについては、原典によって差異がある。その呼吸は、海洋の潮の満干を発生させると伝えられた。

名前の由来は、聖書の海獣「レヴィアタン」の借用の転訛との説がある。

表記 編集

クユーサーや[注 1]、異表記キーユーバーン: کیوبان‎, Kīyūbān)、キブーサーン: کبوثان‎, Kibūthān)は、イスラーム原典のひとつであるカズウィーニー宇宙誌被造物の驚異と万物の珍奇英語版』に見られる[3]

クユーター(Kuyootà)という表記は[4]、19世紀のイギリス人東洋学者エドワード・レイン英語版によるもので、出典はレインが著した『千夜一夜物語』の注釈書、『中世のアラブ社会』である[注 2]。レインがこの表記をどの原典から得たのか明確に区別できないが、クユーサーン("Kuyoothán")という異表記が、イブン=エシュ・シフネフ[要検証][注 3][5](レイン所蔵の写本)にみつかるとしている[6]

クヤタ/クジャタスペイン語: Kuyata[注 4])というスペイン語表記は、現代作家ボルヘスの『幻獣辞典』(1957年)にあるもので[7][8]、レインよりの転載である[9]。次いでクジャタ(: Kujata)という表記で『幻獣辞典』の旧英訳本(1969年)に現れ[10]、クヤタ(: Quyata)という表記に新英訳では訂正がおこなわれている[11]

ラカブーナー [?](: "Rakaboûnâ"ダミーリー英語版の宇宙誌に拠る)や[12][注 5]アル=ラーヤン(Al-Rayann、ムハンマド・アル=キーサーイ『諸預言者伝』に拠る)[14]などの異名・異表記も、他のイスラーム文献に散見できる。

起源 編集

 
天使の踏み台たるルビーの山を[注 6]、世界牛が無数の角に載せて平衡を保つ。[注 7]
—『ジャンティ・アルバム (Gentil Album)』 (1774年)、p. 34。ヴィクトリア&アルバート博物館[注 8][15][16]

クユーター/クユーサーは、旧約聖書『ヨブ記』のレヴィアタンの名前の借用だとされている[17][18][19]

キーユーバーン等、原典(カズウィーニの宇宙誌)の表記は誤写とみなされており[3]、ドイツ訳を手掛けたオリエント学者ヘルマン・エテ英語版によりルーヤーターン: لوياتان‎, Lūyātān[要検証])と校訂されている。エテはその名を「レヴィアタン」だと意訳した[17][注 9]

海獣レヴィアタンが陸の牡牛に転用されている矛盾に関しては、レヴィアタンとベヒモスと一対で世界魚と世界牛として借用したときに、あべこべになったのではないかという指摘がある[20]

アラビア語原典 編集

カズウィーニー(1283年没)の宇宙誌『驚異英語版』によれば[注 10]、神は大地を背負う天使、その足場となる宝石質の岩盤、そして牡牛クユーサーの順に創造して、大地の安定をはかった[注 1]。クユーサーは「4万の目、同数の耳、同数の鼻、口、歯、足を持った牛」だとされている[注 11][22]。ひとつのから別の目へ(あるいは耳から耳等へ)移動するには500年かかるという[22]

4万本足 編集

4千の目、鼻、耳、口、舌、足であると、倍数の違った記載が、レインの要約にみられる[4]。出典があいまいだが、レインが典拠としているダミーリー(1405年没)の記述とおおよそ合致する[注 12]。このダミーリーの宇宙誌というのは、ダミーリーの刊行本の欄外にカズウィーニーの記述が転載がされたものに過ぎないとされている[23]

4万本の角と足(アル=サラビー編)[25][注 13]、または4万個の目、耳、口、舌(アル=キサーイー編)[27]を持つと、最古級の文献である2編の『諸預言者伝』に伝わっている[26]。ただし、こちらには牛の名は見えない[注 14]

ヤークート・アル=ハマウィー (1229年没)『諸国集成』でも4万本の角と足であるが、この資料は、最古文献の2編を導入したものと考えられており、全体の内容としてはアル=サラビー編本『諸預言者伝』に拠る部分が比較的多い[26]

イブン・アル=ワルディー英語版 (1348年没) 『驚異の真珠』は、このヤークートの派生作品で[28]、この宇宙誌の転載とするに相当する箇所もあるが、別の箇所には牛が40の背瘤、40の角、4本の脚を持つと付記されている[29][注 15]

巨牛の角は、神の玉座アルシュ(アラビア語: عرش‎, ʿarš)にまで延びて、玉座に絡みついているとも[30]、玉座のしたで「棘をもつ生垣」のようになっているとも表現される[31]

牡牛が担う宝石盤 編集

牡牛が支える岩盤はレインによれば "ルビー"であるが[32][注 16]、アラビア語の各資料で使われる原語「ヤークート」(ياقوت, yāqūt)は意味曖昧で、宝石の種類もいくつかの可能性が考えられる[33]

原典の多くは緑色の宝石だと明言しており、例えばカズウィーニによる当該箇所も「緑色のヒヤシンス石」となっていることがドイツ訳で確認できる[34][35]。他の文献の訳出例では、「緑のコランダム」(英訳)[30]、「緑のエメラルド」(ラテン訳)[注 17][36]、「緑の岩」(英訳)[注 18][37]等がみられる。

カズウィーニによれば、神は大地を担ぐ天使、岩、牡牛の順(下へ下へと積み重ねられた階層そのままの順)に創造している[22]。しかし他の原典では[注 19]、神は天使、牡牛の順に創り、これが不安定なので牛の背瘤の上に岩盤を挿入したとある[31][30][38]。同原典によれば神は、牡牛と巨魚の間にも後から砂丘を造って敷きつめた[31][30][39][40]

潮の満干 編集

巨牛の呼吸は、海の潮の満干に作用すると伝わる[39]。最古級の文献(アル=サラビー編本)にもあるが、それによると牡牛は鼻を海洋に浸からせており、1日1度呼吸をするが、吐息で海面は上がり、吸息で海面は下がる(潮が引く)とする[31]。別の文献では1日2回呼吸する、としている[30][注 20]

また、牛と魚は、大地から海に流れるすべて水量の飲み込んで、海の水位を保っていると伝えられる。しかし牛と魚はいったん満腹となると興奮しだし(イブン・アル=ワルディー)[42]、それは最後の審判の日の前兆だとされる(ヤークート)[30]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b 電子テキスト"الصخرة أن تدخل تحت قدمي الملك ثم لم يكن للصخرة قرار فخلق الله تعالى ثورا عظيما يقال له كيوثاء ”"(..天使の足の下の岩、その岩が安定せずゆえ、神は大いなる牡牛クユーサーを創り給うた。
  2. ^ 仮訳日本語題名。フル題名は『中世のアラブ社会:千夜一夜物語の学究』(Arabian Society in the Middle Ages: Studies from the Thousand and One Nights
  3. ^ Ibn-Esh-Shiḥneh
  4. ^ スペイン語の場合、”ya"は「ヤ」とも「ジャ」とも発音される。後者のように発音することをジェイスモと称する。もちろんアラビア語の原文からすれば「ヤ」音であるべきである。
  5. ^ ペロン訳のこの牛名は原文と一致しない(誤読か?)。原文は「牡牛のクーユーサ」 al-thawr Kuyūtha (アラビア語: الثور كيوثا‎)とみえる(ダミーリー、1819年カイロ市の出版本)[13]
  6. ^ "montagne de rubis"
  7. ^ 頂点にある大地の円盤は、7枚(7層)の大地のひとつで、エメラルドの山と大海に囲まれる。"mer autour de la montagne d'emeraude"。『Oudjetoulinde』と題する書より書写したとある。解説はフランス語で、Massabi と Meschatに拠る。
  8. ^ もとジャン・バプティスト・ジャンティ英語版大佐が所有。
  9. ^ ちなみに Leviathan はドイツ語発音では"レフィアタン"となる。
  10. ^ 『驚異』の略称はたとえば岡﨑に論文にみえる[21]
  11. ^ "Stier mit 40000 Augen, ebensoviel Ohren, ebensoviel Nasen, Mäulern, Zähnen und Füssen"
  12. ^ ペロン訳では「一対の脚にまた一対の脚がついており、足と足の間は徒歩で500年かかる距離である」とする
  13. ^ Brinner英訳では4万本:"So God sent down from the heights of Paradise an ox with seventy thousand horns and forty thousand leg"だが、アル=サラビーで"7万本"となっている稿本もあるという[26]
  14. ^ そのかわり牛の下の巨魚に複数の名(本名、添え名、あだ名)が出ているのだが[24]
  15. ^ イブン・アル=ワルディーは、レインも副次の資料として挙げている。
  16. ^ ペロン仏訳のダミーリーの宇宙誌でもルビーである:"immense roc de rubis"[12]
  17. ^ 対格 : smaragdum viridem。イブン・アル=ワルディー『驚異の真珠』のラテン訳。
  18. ^ "green rock"。アル=サラビー『諸預言者伝』英訳
  19. ^ ヤークート、アル=サラビー、イブン・アル=ワルディー。
  20. ^ イブン・アル=ワルディーも牡牛の1日2度の呼吸が、海の流れと引きに関連するとしており、レインに脚注される[41]

出典 編集

  1. ^ Islamic World Map”. World Treasures: Beginnings. Earth. Library of Congress. 2020年10月26日閲覧。
  2. ^ ボルヘス, ホルヘ・ルイス; ゲレロ, マルガリータ (1998), 柳瀬尚紀 (訳), “バハムート”, 『幻獣辞典』 (晶文社) 
  3. ^ a b アラビア語原典は Wüstenfeld ed., I, p. 145で、そのそのラテン文字表記は"Kīyūbān/Kibūthān"(Chalyan-Daffner (2013), p. 214、注195)。
  4. ^ a b Lane, Edward William (1883), Lane-Poole, Stanley, ed., Arabian Society in the Middle Ages: Studies from the Thousand and One Nights, London: Chatto & Windus, pp. 106-107, https://archive.org/stream/arabiansocietyin00laneuoft#page/106/mode/2up 
  5. ^ Lane (1883)、p. 106、注 1。
  6. ^ Lane, Edward William (1839), The Thousand and One Nights: Commonly Called, in England, the Arabian Nights' Entertainments, 1, London: Charles Knight, pp. 20, 23, https://books.google.com/books?id=4ywjmBb-O2YC&pg=PA20 
  7. ^ Borges, Jorge Luis; Guerrero, Margarita (1978) [1957]. El Libro de los seres imaginarios. Bruguera. pp. 36–37. https://books.google.com/books?id=Y3KBAAAAMAAJ&dq=kuyata 
  8. ^ Borges & Guerrero (2005), pp. 25, 164
  9. ^ ボルヘスの"Kuyata"の項の主な資料はレインであることが知られており、英訳"Bahamut"と"Quyata"の項の、Hurleyによる巻末注(Borges 2005, pp. 221, 234)で、Lane, Arabian Societyを資料とすると注釈される。
  10. ^ Borges, Jorge Luis; Guerrero, Margarita (1969). Book of Imaginary Beings. en:Norman Thomas di Giovanni (trans.). Dutton. p. 141. https://books.google.com/books?id=KOQSAAAAYAAJ 
  11. ^ Borges, Jorge Luis; Guerrero, Margarita (2005). Book of Imaginary Beings. Andrew Hurley (trans.). New York: Viking. p. 164. ISBN 9780670891801. https://books.google.com/books?id=bn4NAAAAYAAJ 
  12. ^ a b ニコラス・ペロン仏訳、ダミーリーの宇宙誌:Ibn al-Mundir, Abū Bakr b. Badr (1860), Le Nâċérî: La perfection des deux arts ou traité complet d'hippologie et d'hippiatrie arabes, 3, Perron, Nicolas (tr.), Bouchard-Huzard, p. 615, https://books.google.com/books?id=SBk-AAAAcAAJ&pg=PA481 : p. 457の箇所に対する巻末注14に所収。
  13. ^ Al-Damiri (1819). Kitāb ḥayāt al-ḥayawān al-kubrā, etc.. Cairo/Bulaq: al-ʿAmira. p. 164. https://books.google.com/books?id=ic3b7sYiJecC&pg=RA1-PA164&dq=الثور 
  14. ^ ムハンマド・アル=キーサーイ『諸預言者伝』、 Thackston (1997), p. 10
  15. ^ Archer, Mildred; Parlett, Graham (1992), Company Paintings: Indian Paintings of the British Period, Victoria and Albert Museum, pp. 117, 121, https://books.google.com/books?id=TsLqAAAAMAAJ&q=rubies 
  16. ^ Ramaswamy, Sumathi. “Going Global in Mughal India”. Duke University. p. 73. 2020年10月26日閲覧。; album; pdf text
  17. ^ a b Ethé (1868), p. 488(Wüstenfeld編本 p. 145、第5行のテキストに対する注釈)。
  18. ^ Streck, Maximilian (1936), “Ḳāf”, The Encyclopaedia of Islām (E. J. Brill ltd.) IV: p. 615, https://books.google.com/books?id=7CP7fYghBFQC&pg=PA615 
  19. ^ Chalyan-Daffner (2013), p. 236、注268
  20. ^ Guest, Grace D.; Ettinghausen, Richard (1961), “The Iconography of a Kāshān Luster Plate”, Ars Orientalis 4: 53, note 110, http://www.jstor.org/stable/4629133, "The passage in Qazwīnī dealing with these ideas is on p. 145 of Wüstenfeld's edition (where the names of the two animals are confused with each other and where also the Leviathan appears in a corrupt Arabic form form; see also tr. Ethé, p. 298" 
  21. ^ 岡﨑桂二カズウィーニー『被造物の驚異と万物の珍奇』における天使論―ワースィト写本に即して―」(PDF)『四天王寺大学紀要』第57号、1-27頁、2014年3月http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/docs/toshokan/kiyou/57/kiyo57-01.pdf2020年9月26日閲覧 
  22. ^ a b c Ethé (1868), p. 298.
  23. ^ Streck (1936), "al-Ḳazwīnī", Ency. of Islām, p. 844。
  24. ^ a b Brinner (2002), p. 6.
  25. ^ アル=サラビー英語版『諸預言者伝』英語版[24]
  26. ^ a b c d Jwaideh (1987), p. 34、注 1、注2。
  27. ^ アリー・アル=キサーイー英語版(804年没)編『諸預言者伝』[26]
  28. ^ Jwaideh (1987)、 p. 19、 注4。
  29. ^ Chalyan-Daffner (2013), p. 215、註196: Ibn al-Wardī, Kharīdat al-ʿajāʾib (Cairo, 1939), p. 239。
  30. ^ a b c d e f ヤークート 『諸国集成』、Jwaideh (1987), p. 34
  31. ^ a b c d アル=サラビー『諸預言者伝』、Brinner (2002), p. 7
  32. ^ Lane (1883), p. 106.
  33. ^ Rustomji, Nerina (2013). The Garden and the Fire: Heaven and Hell in Islamic Culture. Columbia University Press. p. 71. https://books.google.com/books?id=YVasAgAAQBAJ&pg=PT95 
  34. ^ "Felsen aus grünem Hyacinth"、エテによるカズウィーニーのドイツ訳、Ethé (1868), p. 298。
  35. ^ 英語では"green jacinth"。 シュトレックが担当した『イスラーム百科事典』「カズウィーニー」の項の文中、カズウィーニの宇宙誌の英文要約、Streck (1936), p. 615。
  36. ^ Ibn al-Wardi (1835), pp. 36–37.
  37. ^ Brinner (2002), p. 7.
  38. ^ イブン・アル=ワルディー『奇跡の真珠』、カール・ヨハン・トーンベリスウェーデン語版編・ラテン訳、Ibn al-Wardi (1835), pp. 36–37
  39. ^ a b Chalyan-Daffner (2013), pp. 215–216 and notes 196, 107: Ibn al-Wardī, Kharīdat al-ʿajāʾib, p. 16.
  40. ^ Lane (1883), p. 107、注 1。.
  41. ^ Lane (1883), p. 106、注1。
  42. ^ Chalyan-Daffner (2013), pp. 215–216 and note 200: Ibn al-Wardī, Kharīdat al-ʿajāʾib, p. 15.

参考文献 編集

(二次資料)

関連項目 編集

外部リンク 編集