ゴードン・チャン=フー

アメリカ合衆国の軍人、初のアジア系アメリカ人の海軍将官

ゴードン・パイア・チャン=フー英語:Gordon Paiʻea Chung-Hoon、1910年7月25日 - 1979年7月24日)は、アメリカ合衆国海軍軍人。最終階級は海軍少将第二次世界大戦に参加し、のちに初のアジア系アメリカ人の海軍将官となる。

ゴードン・パイア・チャン=フー
Gordon Paiʻea Chung-Hoon
生誕 1910年7月25日
ハワイ領土 ホノルル
死没 (1979-07-24) 1979年7月24日(68歳没)
所属組織 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
軍歴 1934 - 1959
最終階級 海軍少将
戦闘 第二次世界大戦
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経歴 編集

初期 編集

中国人英国人ハワイ人の混血である父ウィリアム・チャン=フー・ジュニア(William Chung-Hoon Jr.)とハワイ人である母アグネス・プナナ(Agnes Punana)との間に生まれる。祖父ウィリアム・チャン=フー(William Chung-Hoon)は純中国系アメリカ人である[1][2]

1929年にプナホウ・スクールを卒業する。

軍歴 編集

海軍兵学校に入学し、1934年5月にアジア系アメリカ人初の卒業生となる[3]。在学中、チャン=フーは海軍兵学校のアメリカンフットボール選手団の一員としてハーフバックとパンターを務め、そして1934年にそれまで11年連勝を続けていた陸軍士官学校チームに対し勝利を収めた[4]。チャン=フーは1944年5月から1945年10月にかけてのフレッチャー級駆逐艦DD-502 シグスビー」艦長として勇敢で英雄的な功績をたたえ、海軍十字章名誉負傷章を授与される。

1945年春、九州沖にて空母機動部隊の護衛中に「シグスビー」は日本軍機20機の駆逐を支援する。1945年4月14日、「シグスビー」は沖縄沖にてレーダーピケット任務中に神風特攻の突入を受ける。これにより艦の右舷機関の出力は5ノットまで低下し操舵も困難となる。この被害にもかかわらずチャン=フー艦長は「長期かつ有効な対空砲火」の維持を目的に、当該海域に留まることを命じた。継続する日本軍の空襲に対して「シグスビー」はダメージコントロールを実施つつ自力航行での帰港を目指し努力した[5]

1959年10月、海軍少将の階級で退役する。

退役後 編集

退役後のチャン=フーはハワイ州農務省長官を務め、そして1979年7月に死去する[5]

その後、功績をたたえアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の43番艦「チャン=フー」として命名されている。

脚注 編集

外部リンク 編集