艦歴
計画 明治40年度補充艦艇費[1]
発注 1909年8月27日契約[2]
起工 1910年8月10日[3]
進水 1911年6月29日[3]
竣工 1912年6月17日[3]
除籍 1940年4月1日
その後 1947年 解体
要目
排水量 常備:5,000トン
全長 144.8 m / 134.1m(垂線間長)/140.5m(水線長)
最大幅 14.2m
吃水 5.1m
機関 イ号艦本式混焼罐×16基
カーチス式タービン直結方式×2基、2軸推進、22,500hp馬力
燃料
速力 26.0kt
航続距離
乗員 414名
兵装 45口径15.2cm単装砲8門
40口径7.6cm単装砲4門
45.7cm水上魚雷発射管3門
装甲 舷側:89mm
甲板水平部:22mm
甲板傾斜部:57mm
司令塔:102mm
その他 信号符字:GQHS(竣工時)[4]

平戸(ひらと[5])は、日本海軍防護巡洋艦筑摩型の3番艦である。

艦歴 編集

1910年、川崎造船所(神戸)で起工、1912年6月17日に竣工し、二等巡洋艦に類別。日本海軍の巡洋艦として初めてタービン機関を採用し、同型艦三隻にはそれぞれ異なるタイプの機関を搭載している。

第一次世界大戦では、南洋諸島占領作戦に参加、さらに南シナ海南太平洋方面の作戦に従事した。1925年から1937年までおもに中国水域の警備活動に従事。

1932年第一次上海事変に際しては熱河作戦の支援を行った。

1940年4月1日に除籍され廃艦第11号と仮称、海軍兵学校に繋留し練習船として使用した。

1943年12月には兵学校岩国分校に回航し終戦を迎えた。

1945年に浸水着底し、1947年1月5日から4月20日にかけて東京サルベージにより解体され、船体は岩国港の防波堤となった。

艦長 編集

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

兼海軍艦政本部艤装員(1912年3月9日 - 6月17日)
兼呉海軍工廠艤装員(1912年6月17日 - 7月31日)
  • 野村房次郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
  • 幸田銈太郎 大佐:1913年12月1日 -
  • 金丸清緝 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
  • 生野太郎八 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  • (心得)小林躋造 中佐:1916年12月1日 - 1917年4月1日
  • 小林躋造 大佐:1917年4月1日 - 1917年12月1日
  • 菅沼周次郎 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日
  • 小山武 大佐:1918年12月1日 - 1919年5月26日
  • 寺岡平吾 大佐:1919年5月26日 - 1919年6月10日[6]
  • 志賀巳之治 大佐:1919年6月10日[6] - 1919年12月1日[7]
  • 永野修身 大佐:1919年12月1日[7] - 1920年12月1日
  • 松坂茂 大佐:1920年12月1日[8] - 1922年3月15日[9]
  • (兼)高倉正治 大佐:1922年3月15日[9] - 1922年5月15日[10]
  • 松本匠 大佐:1922年5月15日 - 1923年4月1日
  • 金子養三 大佐:1923年4月1日 - 1923年7月20日
  • 鹿江三郎 大佐:1923年7月20日 - 1924年3月25日
  • 吉田善吾 大佐:1924年3月25日 - 1924年12月1日
  • 福島貫三 大佐:1924年12月1日[11] - 1925年2月2日[12]
  • 石田正一 中佐:1925年2月2日[12] - 1925年4月15日[13]
  • 北川清 中佐:1925年4月15日 - 1925年10月15日
  • (兼)今川真金 大佐:1925年10月15日[14] - 1925年11月20日[15]
  • (兼)山口延一 大佐:1925年11月20日 - 1925年12月1日
  • 柴山司馬 大佐:1925年12月1日 - 1926年6月1日
  • 片山登 大佐:1926年6月1日 - 1927年9月28日
  • 瀬崎仁平 大佐:1927年9月28日 - 1928年4月1日
  • 羽仁潔 大佐:1928年4月1日[16] - 1928年12月10日[17]
  • 下村敬三郎 大佐:1928年12月10日[17] - 1929年11月20日[18]
  • 渋谷荘司 大佐:1929年11月20日[18] - 1930年11月20日[19]
  • 丹下薫二 大佐:1930年11月20日 - 1932年5月10日
  • 藤森清一朗 大佐:1932年5月10日 - 1933年4月1日
  • 大島乾四郎 大佐:1933年4月1日 - 1933年8月25日
  • 平岡粂一 中佐:1933年8月25日 - 1934年6月1日
  • (兼)大橋五郎 中佐:1934年6月1日[20] - 1934年10月13日[21]

同型艦 編集

脚注 編集

  1. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-231
  2. ^ #M45-T1公文備考27/軍艦筑摩、矢矧、平戸製造の件(3)画像45
  3. ^ a b c #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1057-1087、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲。
  4. ^ #10月 画像1『達第百九號 軍艦河内外四隻ニ左ノ通信號符字ヲ點付ス 明治四十四年十月三日 海軍大臣 男爵齋藤實 信號符字 艦名 GQHM 河内 GQHN 攝津 GQHP 筑摩 GQHR 矢矧 GQHS 平戸』
  5. ^ 浅井将秀『日本海軍 艦船名考』東京水交社、1928年、186頁。
  6. ^ a b 『官報』第2055号、大正8年6月11日。
  7. ^ a b 『官報』第2199号、大正8年12月2日。
  8. ^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
  9. ^ a b 『官報』第2884号、大正11年3月16日。
  10. ^ 『官報』第2934号、大正11年5月16日。
  11. ^ 『官報』第3684号、大正13年12月2日。
  12. ^ a b 『官報』第3733号、大正14年2月3日。
  13. ^ 『官報』第3792号、大正14年4月16日。
  14. ^ 『官報』第3945号、大正14年10月16日。
  15. ^ 『官報』第3974号、大正14年11月21日。
  16. ^ 『官報』第376号、昭和3年4月2日。
  17. ^ a b 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  18. ^ a b 『官報』第870号、昭和4年11月21日。
  19. ^ 『官報』第1170号、昭和5年11月21日。
  20. ^ 『官報』第2224号、昭和9年6月2日。
  21. ^ 『官報』第2338号、昭和9年10月15日。

参考文献 編集

  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
  • 千藤三千造他『造艦技術の全貌』興洋社、昭和27年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡Ⅰ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『10月』。Ref.C12070062800。 
    • 『明治45年~大正元年 公文備考 艦船1 巻27/軍艦筑摩、矢矧、平戸製造の件(3)』。Ref.C08020038500。 

関連項目 編集