藤森清一朗
藤森 清一朗(ふじもり せいいちろう、1888年(明治21年)11月10日[1] - 1975年(昭和50年)5月20日[2])は、日本の海軍軍人。海兵35期,海大甲種19期。大日本帝国海軍第十戦隊司令官、呉警備戦隊司令官、横須賀警備戦隊司令官、駐満海軍部参謀長、満洲国大使館附武官、北京在勤武官。最終階級は海軍少将。諏訪市長。従四位勲二等功三級。
藤森 清一朗 Rear Admiral Seiichiro Fujimori | |
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藤森清一朗少将 | |
生誕 |
1888年11月10日 日本長野県 |
死没 | 1975年5月20日(86歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1909年 - 1942年 |
最終階級 | 海軍少将 |
除隊後 | 諏訪市長 |
経歴
編集長野県出身[2]。長野県立諏訪中学校第四学年で中退し、1906年11月、海軍兵学校(37期)に入学[1]。1909年11月、兵学校を卒業し、1910年12月、海軍少尉任官[2]。
以後、海軍砲術学校普通科学生、海軍水雷学校普通科学生、海軍大学校乙種学生、水雷学校高等科学生として研鑽を積み、1919年12月から1921年11月まで海軍大学校(甲種19期)で学んだ[2][3]。同年12月、海軍少佐に昇進し呉防備隊分隊長に就任。以後、葵駆逐艦長、皇族附武官(博忠王附)、金剛水雷長、第二艦隊参謀、軍令部参謀、資源局事務官、伊勢副長、間宮特務艦長などを歴任し、1930年12月、海軍大佐に昇進[2][4]。さらに、朝日特務艦長、平戸艦長、駐満海軍部参謀長、兼在満州国大使館附武官、磐手艦長、横須賀防備隊司令などを経て、1936年12月、海軍少将に昇進し呉防備戦隊司令官に就任した[2][4]。以後、第十戦隊司令官、呉鎮守府出仕、軍令部出仕、北京在勤武官などを務め、1940年3月15日に待命、同月21日予備役編入となった[2][4][5]。
1941年9月に充員召集され、太平洋戦争では、呉警備戦隊司令官、横須賀警備戦隊司令官、第7海軍根拠地隊司令官、父島方面特別根拠地隊司令官として各地を転戦し、軍令部出仕を経て、1942年12月、充員召集が解除された[2][4][5]。
1943年7月19日、諏訪市長に就任し、戦時下の対応に尽力し、1945年7月10日に市長を退任した[6]。その後公職追放となった[7]。
年譜
編集- 1909年(明治42年)- 海軍兵学校(37期)卒業
- 1921年(大正10年)
- 11月 - 海軍大学校(甲種学生19期)卒業
- 12月1日 - 海軍少佐
- 1922年(大正11年)7月20日 - 葵駆逐艦長
- 1924年(大正13年)12月1日 - 金剛水雷長
- 1925年(大正14年)11月10日 - 第二艦隊参謀
- 1926年(大正15年)
- 11月1日 - 軍令部参謀(第2班第3課)
- 12月1日 - 海軍中佐
- 1929年(昭和4年)11月30日 - 伊勢副長
- 1930年(昭和5年)
- 11月15日 - 間宮特務艦長
- 12月1日 - 海軍大佐
- 1931年(昭和6年)12月1日 - 朝日特務艦長
- 1932年(昭和7年)5月10日 - 平戸艦長
- 1933年(昭和8年)
- 4月1日 - 駐満海軍部参謀長
- 4月25日 - 兼在満洲国大使館附武官
- 1934年(昭和9年)9月1日 - 磐手艦長
- 1935年(昭和10年)11月15日 - 横須賀防備隊司令
- 1936年(昭和11年)12月1日 - 海軍少将・呉防備戦隊司令官
- 1937年(昭和12年)12月1日 - 第10戦隊司令官
- 1939年(昭和14年)3月15日 - 北京在勤武官
- 1940年(昭和15年)3月21日 - 予備役
- 1941年(昭和16年)
- 9月24日 - 充員召集
- 10月15日 - 呉警備戦隊司令官
- 1942年(昭和17年)
- 1月10日 - 横須賀警備戦隊司令官
- 4月10日 - 第7海軍根拠地隊司令官
- 6月15日 - 父島方面特別根拠地隊司令官
- 12月21日 - 召集解除
- 1975年(昭和50年)5月20日 - 86歳にて没。
栄典
編集親族
編集- 伯父:降幡敏 (海軍中将、海兵35期)
- 甥:降幡倉雄(海軍主計少佐、海経16期首席、姉の息子)
- 甥:藤森健(海軍少尉、海兵74期、兄の次男)