独孤 永業(どっこ えいぎょう、? - 580年)は、中国北斉軍人は世基。本姓は劉。本貫中山郡[1][2][3]

経歴 編集

幼くして父を失い、母が独孤氏に再嫁したので、永業は母とともに独孤家に養育され、その姓を名乗った。都督六州諸軍事として抜擢され、晋陽に宿衛した。高澄と語り合って喜ばれ、中外府外兵参軍に任ぜられた。天保元年(550年)、北斉が建国されると、中書舎人・豫州司馬に任ぜられた。永業は事務仕事を理解し、歌舞を得意とし、文宣帝に重んじられた[1][2][3]

乾明元年(560年)、河陽行台右丞として出向し、洛州刺史に転じ、また刺史のまま行台左丞に進んで、散騎常侍の位を加えられた。永業の駐屯した河陽は北周との国境近くにあった。北周が黒澗に築城して河陽への糧道を断とうと図ると、永業もまた鎮を築いてこれに対抗した。永業は国境地帯で威信があり、行台尚書となった。河清3年(564年)、北周が洛州に侵攻すると、永業は刺史の段思文が守りきれないことを恐れて、金墉城に入って守備を助けた。北周側が地下道を掘って攻撃し、攻防は朝夕に30日にわたって続いた。北斉の援軍がやってくると、北周軍は撤退した[4][5][6]

永業は長らく河南にあって、招撫につとめ、北斉に帰順する者は万を数えた。そのうち200人を選んで爪牙とし、戦闘があるごとに先鋒とし、少数で多数の敵に当たらせたので、北周の人もこれをはばかった。永業は儀同三司の位を加えられ、与えられる賞賜も厚いものがあった。性格は剛直で、権勢ある人物と交際しようとしなかった。斛律光がふたりの婢を永業に求めたことがあったが得られず、このため朝廷で永業をそしった。河清4年(565年)、に召されて太僕卿となり、乞伏貴和が永業に代わって赴任すると、西の国境地帯は弱体化し、河洛の治安も悪化した[7][8][9]

武平3年(572年)、斛律羨を捕らえるために幽州に派遣され、北道行台僕射・幽州刺史となった。まもなく領軍将軍として召された。河洛の民衆の多くは、永業の統治をなつかしみ、北斉の朝廷でも西辺防備に不安が出たので、永業を河陽道行台僕射・洛州刺史に任じた。武平6年(575年)、北周の武帝が自ら金墉を攻撃すると、永業は出兵してこれを防御した。永業が夜を徹して馬槽2000を整備したので、北周側はこのことを聞いて、北斉の大軍がやってくるものと思い、包囲を解いて去った。永業は開府儀同三司に進み、臨川王に封ぜられた。武平7年(576年)、晋州での敗北の報を聞き、出兵を願い出たが、返事がかえってこなかったため、永業は憤慨した。并州が落とされ、自身も北周の常山公于翼に肉薄されたので、子の独孤須達を使者として北周に投降した[7][8][9]建徳6年(577年)1月、応国公に封ぜられた[10]。5月、大司寇となった[11][12]宣政2年(578年)、襄州総管として出向した。大象2年(580年)、行軍総管の崔彦穆のために殺された[13][8][14][9][15]

脚注 編集

  1. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 526.
  2. ^ a b 北斉書 1972, p. 544.
  3. ^ a b 北史 1974, p. 1929.
  4. ^ 氣賀澤 2021, pp. 526–527.
  5. ^ 北斉書 1972, pp. 544–545.
  6. ^ 北史 1974, pp. 1929–1930.
  7. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 527.
  8. ^ a b c 北斉書 1972, p. 545.
  9. ^ a b c 北史 1974, p. 1930.
  10. ^ 周書 1971, p. 100.
  11. ^ 周書 1971, p. 102.
  12. ^ 北史 1974, p. 368.
  13. ^ 氣賀澤 2021, p. 528.
  14. ^ 周書 1971, p. 641.
  15. ^ 『北斉書』および『北史』の独孤永業伝は「崔彦睦」に殺害されたとするが、『周書』崔彦穆伝にみえる「崔彦穆」が正しい。

伝記資料 編集

参考文献 編集

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4