王景 (翰林学士)
生涯 編集
洪武初年、懐遠教諭となった。博学なことから洪武帝の詔に応じ、宗廟祭祀における音楽の詩詞を作り、諸侯王の朝見儀礼を定めた。官を歴任して山西参政となったが、後に雲南に流された。1399年(建文元年)、張紞の推薦により南京に召還され、礼部侍郎・兼翰林院侍講となった。董倫とともに『太祖実録』編纂の総裁官をつとめた[1]。1402年(建文4年)、永楽帝が即位すると、王景は翰林院学士に抜擢された。永楽帝が建文帝の葬礼について諮問すると、王景は頓首して「天子の礼を用いるべきです」と答えた。帝はその言に従った。1408年(永楽6年)7月13日、王景は在官のまま死去した。享年は73。著書に『玉堂稿』[2]があった。
妻子 編集
妻 編集
- 毛氏(先立って死去した)
- 李氏(後妻)
子 編集
- 王宏
- 王荊(早逝)
- 王誠
- 王信克(後嗣)
- 王貫