王 英(おう えい、1376年 - 1450年)は、明代官僚は時彦、は泉坡。本貫撫州金渓県

生涯 編集

王脩本と曽氏のあいだの子として生まれた。1404年永楽2年)、進士に及第した。翰林院庶吉士に選ばれ、文淵閣で読書した。永楽帝にその慎重で注意深い性格を買われて、王直とともに機密文書の書記を任された。『太祖実録』の編纂に参加した。1407年(永楽5年)11月、翰林院修撰に任じられた[1]1416年(永楽14年)8月、翰林院侍講に進んだ[2]

1422年(永楽20年)、王英は永楽帝の漠北遠征に扈従した。永楽帝が軍を返し、李陵城を通り過ぎた。永楽帝は城中に石碑があると聞いて、王英を召し出して見に行かせた。城に到着したが、石碑の場所は分からなくなっていた。城の北門から石が土から出ていたため、これを発掘すると、のときの李陵台駅令の謝某の徳政碑であり、碑陰にはダルガチらの氏名が刻まれていた。王英がこのことを詳しく上奏すると、永楽帝は後日の争いの種になることを懸念した。王英は帝の命を受けて再び李陵城に赴き、この石を粉砕して川に沈めた。1424年(永楽22年)、洪熙帝が即位すると、王英は右春坊大学士に累進し、帰省を願い出た。

1425年洪熙元年)、宣徳帝が即位すると、王英は朝廷に復帰した。『太宗実録』と『仁宗実録』の編纂に参加した。1430年宣徳5年)[3]5月、少詹事に転じ、麒麟帯を賜った。1432年(宣徳7年)[4]、母が死去すると、王英は特別に葬祭を賜り、宦官の護衛つきで帰郷した。ほどなく官に復帰した。1436年正統元年)、経書を講義する席に近侍するよう英宗に命じられた。『宣宗実録』の編纂を総裁し、礼部侍郎に進んだ。1443年(正統8年)、礼部の事務を管理するよう命じられた。浙江の民衆のあいだで疫病が起こると、王英は南鎮に派遣されて祭祀をおこなった。久しく日照り続きだったが、王英が到着すると大雨が降ったため、民衆は「侍郎雨」と呼んだ。1445年(正統10年)、王英は再び帰休を願い出たが、許されなかった。1447年(正統12年)、王英の子の按察副使王裕が事件に連座して獄に下された。王英は上疏して処罰を待ったが、不問に付された。1448年(正統13年)、南京礼部尚書に進んだ。1450年景泰元年)5月17日、死去した。享年は75。は文安といった。著書に『泉坡文集』6巻・『泉坡詩集』5巻[5]があった。

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻14
  2. ^ 『国榷』巻16
  3. ^ 『国榷』巻21
  4. ^ 『国榷』巻22
  5. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻18

参考文献 編集

  • 明史』巻152 列伝第40
  • 尚書王文安公伝(程敏政『明文衡』巻61所収)