甄 邯(しん かん、? - 12年)は、中国前漢時代末期から代にかけての政治家または武将。字は子心豫州汝南郡の人。

事跡

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姓名 甄邯
時代 前漢時代 -
生没年 生年不詳 - 12年始建国4年)
字・別号 子心(字)
本貫・出身地等 豫州汝南郡
職官 侍中兼奉車都尉〔前漢〕

光禄勲(後に右将軍兼任)〔前漢〕
太保兼後承〔前漢〕
大将軍〔前漢〕→大司馬〔新〕

爵位・号等 承陽侯〔前漢〕→承新公〔新〕
陣営・所属等 平帝孺子嬰王莽
家族・一族 〔不詳〕

王莽の腹心・幕僚の一人。同姓の甄豊とともに、王莽にさまざまな献策を行い、新の創建に貢献した政治家である。

元始元年(1年)、侍中兼奉車都尉から光禄勲に遷る。元始2年(2年)、右将軍を兼任する。同年3月、侍中・奉車都尉就任時に、宗廟を安んじる策を定めた功績を評価され、承陽侯に封じられた。

以上のように、元始年間に、甄豊と甄邯は王莽の側近として台頭し、朝廷で威勢を振るい始めた。元始3年(3年)、甄邯は王莽による王宇呂寛・衛氏一族の誅滅に加担している。またこの時、京兆尹金欽が、その曾祖父の金日磾の功績を讃え、自身の祖父と父について立廟するよう上奏すると、甄邯はこれを「大不敬」として糾弾した。金欽は罪に問われて自殺し、甄邯は国礼の綱紀を正した功により千戸を加増されている。

居摂元年(6年)3月、甄邯は太保兼後承に任命され、孺子嬰を補佐した。居摂2年(7年)9月の東郡太守翟義の反乱の際には、甄邯は、大将軍を兼任し、王莽の命で覇上に駐屯した。翟義に呼応して槐里(右扶風)で蜂起した趙明・霍鴻を、甄邯は建威将軍王晏とともに迎撃し、居摂3年(8年)に三輔へ引き返してきた虎牙将軍王邑らの援護を得て、趙明らを鎮圧する。

始建国元年(9年)、王莽が新を創建するとともに、承新公に封じられ、大司馬に就任した。始建国4年(12年)、大司馬の地位に在ったまま死去した。

参考文献

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  • 漢書』巻18表6外戚恩澤侯表
  • 同巻19下表7下百官公卿表下
  • 同巻68列伝38金日磾伝
  • 同巻84列伝54付・翟義伝
  • 同巻99上列伝69上王莽伝上
  • 同巻99中列伝69中王莽伝中