甲斐庄正房
甲斐庄 正房 (かいのしょう まさふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。江戸幕府の旗本。旗本甲斐庄氏2代目。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄7年(1564年) |
死没 | 寛永7年7月22日(1630年8月20日) |
別名 | 喜右衛門(通称) |
墓所 | 吉祥寺 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
氏族 | 甲斐庄氏 |
父母 | 父:甲斐庄正治 |
妻 | 中黒弥兵衛娘(加賀藩前田氏家臣) |
子 | 正述、原田正成室、雀部重良室。 |
生涯
編集永禄7年(1564年)、甲斐庄正治の子として誕生。通称は喜右衛門(7代正壽まで同名を名乗る)。
父とともに徳川家康に仕え、小田原征伐に従軍し、関東で封地300石を給い、慶長4年(1599年)に父が没し封地合わせて600石を領する。
関ヶ原の戦いに従軍ののちに大番組頭となる。大坂の陣両陣に従軍し、河内国の地理に詳しいことから道案内をつとめたたり、事前に野武士の大坂城入城を阻止したりした。特に夏の陣では、水野勝成隊に属して戦功をあげ、関東より甲斐庄氏の出自の地の河内国錦部郡2000石と半ば放棄されていた烏帽子形城を賜い(後に烏帽子形城は廃城)、旧知600石は収公される。
元和3年(1617年)に四天王寺の造営奉行を務める。また、烏帽子形城の東にある烏帽子形八幡神社が荒廃していたのを嘆き、四天王寺修築の余材で改修したとされ、元和8年(1622年)8月に竣工した。
天領13000石を預かった時期もあった。