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町野 繁仍(まちの しげより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将蒲生氏の家臣。

 
町野繁仍
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永5年(1628年[1]
別名 幸仍、通称:左近将監
主君 蒲生氏郷秀行忠郷
氏族 安井氏町野氏
父母 父:安井吉秀
兄弟 男子、繁仍
蒲生氏郷乳母
幸和繁秀
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略歴編集

安井吉秀の次男として誕生。元々は近江国蒲生郡にある竹田神社神職であった。養父の町野備前守秀長は『寛政重修諸家譜』は天正12年に77歳で没したことしか知られていないが、木下聡は室町幕府評定衆で永正-天文年間に活動した町野将監康定の子と推定している。木下によれば、この町野氏三善氏系で、鎌倉府問注所で活躍したが、京都の宗家は摂津氏との競争に敗れて戦国時代の早い時期に没落して蒲生氏を頼ったと推測してる(幕府文書では足利義輝が近江に滞在していた天文年間末期以降の町野氏の動向が不明となっている。『蒲生郡志』では町野氏を蒲生氏譜代の臣とするが、蒲生氏関連の文書での初出は元亀年間である)[2]

蒲生氏郷の日野時代からの直臣で、氏郷が織田氏への人質として岐阜城へ送られた時に従い、本能寺の変の直後には、氏郷と共に日野城に籠城した。

氏郷が松阪に移封された際には、山田奉行として伊勢神宮の支配に関与した[3]天正15年(1587年)9月には日野の馬見岡綿向神社に銭二百疋を寄進した。天正18年(1590年)、氏郷が会津黒川城に移封された際には子・幸和と共に猪苗代城二本松城の城代を務め、3万8000石を領した。葛西大崎一揆九戸政実の乱の時は蒲生郷安と共に二番手の大将として戦った。郷安が仕置奉行を務めた時、玉井貞右と共に加判を任された。

蒲生秀行の代では真岡城で8000石を給され、仕置奉行となる[4]。秀行が会津若松に復領した際は白河小峰城の城代となり、2万8000石を与えられ、仕置奉行を再任する[4]

蒲生忠郷の代に家督を嫡男・幸和に譲り、次男・繁秀と共に故郷の竹田神社に帰った。

脚注編集

  1. ^ 寛政重修諸家譜』では慶長18年(1613年)11月25日に71歳で死去としている。
  2. ^ 木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」(初出:佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3/所収:木下聡『室町幕府の外様衆と奉公衆』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-790-5) 2018年、P298-299・310.
  3. ^ 前述の木下聡によれば、京都の町野氏は室町幕府における伊勢神宮との交渉役である神宮方の頭人を務めたことがあり、町野繁仍の起用もその縁による可能性があるとしている(木下、2018年、P299-300.)。
  4. ^ a b 氏郷記

出典編集