瘠我慢の説」(やせがまんのせつ)は、福澤諭吉の著書のひとつ。1891年明治24年)11月27日に脱稿され、1901年明治34年)1月1日の『時事新報』紙上に掲載された。さらに、1901年明治34年)5月に『丁丑公論』と一緒に一冊の本に合本されて時事新報社から出版された。

なお、石河幹明が序文を記し、掲載の経緯を説明している。また付録として、1901年明治34年)2月に福澤が勝海舟榎本武揚に送った書簡と両名の答書および、石河幹明の「瘠我慢の説に對する評論に就て」と木村芥舟の「福澤先生を憶ふ」が掲載されている。

内容 編集

以下、原文の引用[1]を含む。

冒頭で「立国は私なり、公にあらざるなり」と述べて、国家は必要悪であって忠君愛国の情は私情にすぎないと続ける(以上から福沢諭吉は古典的自由主義に影響されているといえよう)。しかしながら、現在の時点では国家は必要であって、たとえ小国であっても忠君愛国の情を持つことは「瘠我慢」として認める。

そして、勝海舟は講和論者であって、江戸城を開城し、内乱を避けた功績は認めるにしても、幕府に対する「瘠我慢」の情がなかったと非難する。さらに、王政維新での戊辰戦争に際し、徳川家が薩長に降参して自ら解体するに至ったことは、「立国の要素たる瘠我慢の士風をそこなうたるの責は免かるべからず」と述べて、維新の時に「瘠我慢」が損なわれたことを非難する。

また、榎本武揚も「飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、ついに窮して降参したる者なり」、つまり「一旦は幕府を維持するために戦ったにもかかわらず、最期には降参してしまった」ため、降参した後に東京に護送されて、新政府に協力したことは感服することではあるものの、やはり「瘠我慢」の情がなかったと非難する。

特徴 編集

本書の特徴は、勝海舟と榎本武揚に対する個人攻撃であるところにある。石河の序文によると、もともと公にする予定はなく、親しい人々の間でのみ写本が渡されていたが、写本が流出したため、石河の要望により『時事新報』紙上に掲載されることになった。

福澤諭吉は本書の公表前に、草稿を勝海舟と榎本武揚に送り、意見を求めている。それに対して勝海舟は「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています)」と返答した。

他方、榎本武揚は当時外務大臣に就いていたが、「多忙につき、そのうち返答する」という返事を出した。痩我慢の説は上述の通り1901年(明治34年)1月に世間に公表されたが、同年2月に福澤が死去し、榎本は返答しないまま終わった[2]

なお、福澤諭吉の友人であり、戊辰戦争にて榎本と行動を共にした大鳥圭介は、個人攻撃の対象とならなかった。

参考文献 編集

  • 小泉仰解説「福沢諭吉における抵抗精神とナショナリズム」‐『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』 講談社学術文庫、1985年。133-146頁

他の刊行文献 編集

脚注 編集

  1. ^ 福沢諭吉 『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』講談社学術文庫、1985年。ISBN 406-1586750
  2. ^ 『近代日本の万能人・榎本武揚』、藤原書店、2008年。pp. 78-81

関連項目 編集

外部リンク 編集