白河団(しらかわだん)は、728年から11世紀の日本で陸奥国に置かれた軍団の一つである。白河軍団(しらかわぐんだん)とも書かれた。現在の福島県南部、白河郡に置かれたと推定される。正確な位置は不明だが、関和久遺跡とする説がある[1]

歴史編集

白河軍団は、神亀5年(728年)4月11日に新設された[2]多賀城跡で出土した8世紀の木簡に、白河団が射手44人を進上したことが記される[3]。うち18人は「船守」すなわち船の警備についたようである[4]

弘仁2年(811年)、あるいはこの年までのいつかに廃止され、陸奥国の軍団は玉造団名取団のみになった[5]

しかし弘仁6年(815年)8月には白河団など4団が設置され、陸奥国ではそれより6団6000人が6交代制で常時1000人の兵力を駐屯地に維持することになった[6]。白河団の兵士は、行方団安積団とともに3軍団で常時500人を多賀城国府に駐屯させたようである。この時の定員は、標準的な各団1000人であろう。

後に陸奥国には磐城団が増設されて7団7000人となり、承和10年(843年)に1000人を増員して7軍団に割りふった[7]。白河団の増員後の兵力は不明だが、引き続き多賀城の守備にあたった[8]

10世紀に編まれた延喜式にも陸奥国に7団を置くことが規定されており、軍団の構成は変わらなかったと考えられる[9]

11世紀前半に書かれた『左経記長元7年(1035年)12月15日条に、「白河団擬矢八占部宿祢安信」という名が見える。軍団に関する記録として終わりに近いものである[10]

脚注編集

  1. ^ 戸田有二「古代白河郡と泉崎村」6頁。
  2. ^ 『続日本紀』神亀5年四月丁丑(11日)条。
  3. ^ 橋本裕「律令軍団一覧」159頁。高倉敏明『多賀城』103-104頁。
  4. ^ 平川南『東北「海道」の古代史』135-136頁。
  5. ^ 日本後紀』弘仁2年閏12月辛丑(11日)条には、2000人に減員することのみが記される。標準的な軍団は定員1000人であり、2000人が玉造団と名取団にあたることは、本文後述の弘仁6年8月23日の太政官符によって判明する。
  6. ^ 類聚三代格』巻第十八。黒板勝美・編『類聚三代格(後編)・弘仁格抄』551-552頁。
  7. ^ 『続日本後紀』承和10年4月19日条。
  8. ^ 元慶年間(877年から884年)の太政官符に、鎮守府の守備にあたる軍毅が15人、国府守備にあたる軍毅が20人とある。前者を3軍団、後者を磐城団を加えた4軍団と按分すれば5人ずつで割り切れる。平川南『漆紙文書の研究』282頁。
  9. ^ 橋本裕は、変更の可能性もあると見る(「律令軍団一覧」159-160頁)。
  10. ^ 橋本裕「律令軍団一覧」160頁。

参考文献編集

  • 黒板勝美・編『新訂増補国史大系 類聚三代格(後編)・弘仁格抄』、吉川弘文館、普及版1971年。初版1934年。
  • 高倉敏明『多賀城 古代国家の東北支配の要衝』(日本の遺跡30)、同成社、2008年、ISBN 978-4-88621-452-2
  • 橋本裕「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』(増補版)、吉川弘文館、1990年(初版は1982年発行)、ISBN 4-642-02244-9 に所収。論文初出は『続日本紀研究』199号、1978年10月。
  • 平川南『漆紙文書の研究』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-02232-5
  • 平川南「掘り出された文字は語る」、青木和夫・岡田茂弘・編『古代を考える 多賀城と古代東北』、吉川弘文館、2006年、ISBN 4-642-02196-5
  • 平川南『東北「海道」の古代史』、岩波書店、2012年。
  • 戸田有二「古代白河郡と泉崎村」『泉崎の文化財』泉崎村教育委員会、1993年。