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行方団(なめかただん)は、7世紀から10世紀頃の日本で陸奥国に置かれた軍団の一つである。行方郡に置かれたと推定されるが、正確な位置は不明である。

歴史編集

軍団制は大宝元年(701年)の大宝令までに実施されたと推定される。国府があった多賀城址から出土した漆紙文書に「宝亀十一年九月廿□」(改行)「行方団□毅上毛野朝□」(□は判読不能な文字)などの文字が見え、この年に活動していたことが知られる[1]宝亀11年(780年)9月は、伊治呰麻呂の反乱で多賀城が陥落した直後である。毅は大毅少毅であろう。上毛野氏は古代に蝦夷との戦いで活躍した関東の名族で、その一人が多賀城に勤務して10日分の食糧を請求したのがこの文書と推定される[2]

弘仁2年(811年)までに行方団は廃止され、陸奥国の軍団は玉造団名取団のみになった[3]

しかし弘仁6年(815年)8月に行方団など4団が設置され、陸奥国ではそれより6団6000人が6交代制で常時1000人の兵力を駐屯地に維持することになった[4]。行方団の兵士は、白河団安積団とともに3軍団で常時500人を多賀城国府に駐屯させたようである。この時の定員は、標準的な各団1000人であろう。

後に陸奥国には磐城団が増設されて7団7000人となり、承和10年(843年)に1000人を増員して7軍団に割りふった[5]。行方団の増員後の兵力は不明だが、引き続き多賀城の守備にあたった[6]

10世紀に編まれた延喜式にも陸奥国に7団を置くことが規定されており、行方団を含め陸奥国の軍団の構成は変わらなかったと考えられる[7]。廃止時期は不明だが、この頃には軍団は形骸化していた。

脚注編集

  1. ^ 平川南「掘り出された文字は語る」198頁。工藤雅樹『城柵と蝦夷』115頁。
  2. ^ 平川南『東北「海道」の古代史』134-135頁。
  3. ^ 日本後紀』弘仁2年閏12月辛丑(11日)条には、2000人に減員することのみが記される。標準的な軍団は定員1000人であり、2000人が玉造団と名取団にあたることは、本文後述の弘仁6年8月23日の太政官符によって判明する。
  4. ^ 類聚三代格』巻第十八。黒板勝美・編『類聚三代格(後編)・弘仁格抄』551-552頁。
  5. ^ 『続日本後紀』承和10年4月19日条。
  6. ^ 元慶年間(877年から884年)の太政官符に、鎮守府の守備にあたる軍毅が15人、国府守備にあたる軍毅が20人とある。前者を3軍団、後者を磐城団を加えた4軍団と按分すれば5人ずつで割り切れる。平川南『漆紙文書の研究』282頁。
  7. ^ 橋本裕は、変更の可能性もあると見る(「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』(増補版)159-160頁)。

参考文献編集

  • 工藤雅樹『城柵と蝦夷』(考古学ライブラリー51)、ニュー・サイエンス社、1989年。
  • 黒板勝美・編『新訂増補国史大系 類聚三代格(後編)・弘仁格抄』、吉川弘文館、普及版1971年。初版1934年。
  • 橋本裕「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』(増補版)、吉川弘文館、1990年(初版は1982年発行)、ISBN 4-642-02244-9 に所収。論文初出は『続日本紀研究』199号、1978年10月。
  • 平川南『漆紙文書の研究』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-02232-5
  • 平川南「掘り出された文字は語る」、青木和夫・岡田茂弘・編『古代を考える 多賀城と古代東北』、吉川弘文館、2006年、ISBN 4-642-02196-5 が所収。
  • 平川南『東北「海道」の古代史』、岩波書店、2012年。