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軍団 (ぐんだん) は、7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織である。個々の軍団は、所在地の名前に「軍団」または「団」をつけて呼ばれた。国家が人民から兵士を指名・徴兵し、民政機構であるとは別立てで組織した。当初は全国に多数置かれたが、辺境・要地を除き一時的に停止されたこともあり、826年には東北辺境を除いて廃止された。

軍団の成立編集

軍団は大宝元年(701年)制定の大宝律令に規定されているが[1]、いつ成立したかを直接記す史料はない。7世紀半ばまでの日本の軍隊は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。国造軍と比べたときの軍団の特徴は、兵士を国家が徴兵したことと[2]、軍事組織を地方民政機構から分離したことの二点である[3]。遅くみる説では大宝令となるが、もう少し早くみて持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令によるとする説が有力なものとしてある。

兵士を国家が徴兵するためには、個々の住民を記載する戸籍を作成し、戸籍を利用して誰を兵士にするかを決定する必要がある。そのためには戸籍によって人民一人一人を把握できる体制が作られなければならない。戸籍の始まりは天智天皇9年(670年)の庚午年籍なので、これが有力な候補となる。庚午年籍は不十分なものだったとみて、持統天皇4年(690年)の庚寅年籍にあてる説もある[4]

国家が徴兵した兵士は、軍団に編成されることも可能だが、(後の)を単位に部隊をなし、評の役人に率いられていたかもしれない。そういうものを大宝令以降の軍団と同じものと見るのは無理で、評制軍あるいは評造軍と呼ぶべきものとなろう。軍団成立のもう一つの基準として軍毅の成立や評の関与の有無が着目される理由である。軍隊指揮用具と大型武器を私家におかず郡家(実際には評の役所[5])に収めることを命じた天武天皇14年(685年)11月4日の詔は、この時期に軍事指揮が評に握られていたことを推定させる有力な証拠である[6]。それ以降となると、飛鳥浄御原令と大宝令が有力候補となる[7]

徴兵編集

養老律令の軍防令は、正丁(せいてい、21~60歳の健康な男)三人につき一人を兵士として徴発するとした。この規定では国の正丁人口の三分の一が軍団に勤務することになるが、実際の徴兵はこれより少なかったようで、一戸から一人が実情ではないかとも考えられている。 兵士の食糧と武器は自弁で、平時には交替で軍団に上番し、訓練や警備にあたった。 また軍団兵士の中から選ばれて、衛士府衛門府に勤務する衛士となりで諸役に動員され、また東国の軍団からは防人鎮兵として九州地方東北地方などに出征する者も多かった。負担の厳しさから死亡したり逃亡したりする衛士も少なくなかった。出雲国の「計会帳」によると天平6年度(734年)だけでも3回にわたってその交替要員が出雲国から送られている[8]

律令制において「兵士」とは軍団兵の事を指す言葉で、その他の戦闘組織の兵にはそれぞれ固有の名称が存在する。

規模と指揮系統編集

平時の軍団は国司の下に置かれた。標準的な軍団の定員は千人であったが、後に軍団・兵員の縮小が実施され、小さな国ではこれより少なくなったり、廃止されたりした。小さな軍団は、百人単位で適当な大きさに編成されたらしい。記録上に見える一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、陸奥国の例では時代によって10000名で6個軍団、あるいは8000名で7個軍団という例も見られるため、千人を超える例も存在したと考えられている。

軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。

軍団の規模によって

  • 千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。
  • 六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。
  • 五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。

(区分としては「五百人以下」と「六百人以上」の間の規定がないようにみえるが、実際は軍団は百人単位の編制であるため問題はない)

軍団の軍毅以下の指揮系統と編制は以下の通りとなる。

  • 校尉が二百人を率いた。二百長とも呼ばれた。
  • 旅帥が百人を率いた。百長とも呼ばれた。
  • 隊正が五十人からなる「隊」を率いた。隊正は隊長とも呼ばれた。
  • 火長は十人からなる「火」を率いた。火は兵士の生活・行動・補給の単位で、おそらく一つの火で十人分の食事を作ったことに由来する。
  • 伍長が五人からなる「伍」を率いたとする説があるが、明確な規定がなく発掘資料にも見えないことから、存在を疑う者もいる。
  • その他に主帳が事務を取り扱った。

大毅 - 少毅 - 校尉 - 旅帥 - 隊正 - 火長 - (伍長)

装備編集

  • 個人装備(自弁)
1、弓弦袋1、予備弦2、50、矢入1、太刀1、小刀1、砥石1、藺笠1、飯袋1、水筒1、塩袋1、脚絆1、鞋1。
  • 個人装備(官給 ただし所定の数量を自弁で軍団庫に納入するため実質は自弁)
乾飯6斗、塩2升。
  • 火ごとの装備(自弁)
幕1、釜2、鍬1、草刈具1、斧1、手斧1、鑿1、鎌2、鉄箸1。
  • 火ごとの装備(官給)
駄馬6頭
  • 隊ごとの装備(自弁)
火打石1、点火用もぐさ1、手斧1。
  • 団ごとの装備(官給)
鼓2、大角(ほらがい)2、小角(つのぶえ)4、弩(いしゆみ)若干。
(鼓、角、弩は軍団にのみ所持が許された物であるため一般の所持は禁止、また弩は体格と腕力に優れた者が隊ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた)

なお甲冑は軍団の装備には含まれていない。甲冑は製作に高いコストと技術が必要なために当時の生産量は非常に少なく、軍団の標準装備とはなりえなかった。 大規模な東征の軍勢が組織される場合などに、指揮官の請求に応じて別途支給されたが、常備の警備兵力としての性格が強い軍団に支給された例は多くない。

配置編集

軍団は、一つの国に最低一つ、大きな国には複数置かれた。軍団の指揮系統は郡以下の地方組織に対応しており、指揮官の大毅と少毅は郡司層から選ばれた。軍団は数個郡に一つの割合で存在し、一個は国府所在郡の郡家近くに置かれ、残りの軍団も他の郡家の近くに駐屯して、訓練に従事した。

下記の3国は配置された全ての軍団名と所在地が判明している。

下記の例は一部の軍団のみ判明している。

また軍団個数が判明している例は下記の通り。

  • 筑前国:4個軍団 兵士4000名(2000名)
  • 筑後国:3個軍団 兵士3000名(1500名)
  • 豊前国:2個軍団 兵士2000名(1000名)
  • 豊後国:2個軍団 兵士1600名(1000名)
  • 肥前国:3個軍団 兵士2500名(1500名)
  • 肥後国:4個軍団 兵士4000名(2000名)

弘仁4年(813年)8月9日付の減員前(カッコ内は減員後)

脚注編集

  1. ^ 野田嶺夫『律令国家の軍事制』「大宝軍防令条文の復元と史料」1-43頁。
  2. ^ 山内邦夫「律令制軍団の成立について」184-185頁。
  3. ^ 橋本裕「軍毅についての一考察」9頁。
  4. ^ 山内邦夫「律令制軍団の成立について」184-185頁。
  5. ^ この詔を伝える唯一の史料である『日本書紀』は、古い時代の評を郡に書き替えている。評の役所を何と呼んだかは不明。
  6. ^ 『日本書紀』天武天皇14年11月丙午条。新編日本古典文学全集『日本書紀』3の453頁。橋本裕「軍毅についての一考察」10-11頁。
  7. ^ 橋本裕「軍毅についての一考察」12-13頁。橋本自身は大宝令説を採る。
  8. ^ 大日方克己「古代国家の展開と出雲・石見・隠岐三国」 松尾寿・田中義昭・渡辺貞幸・大日方克己・井上寛司・竹永三男『島根県の歴史』2005年 96ページ

参考文献編集

  • 小島憲之直木孝次郎西宮一民・蔵中進・毛利正守『日本書紀』3(新編日本古典文学全集4)、小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X
  • 青木和夫『古代豪族』、講談社、2007年 ISBN 4061598112(初版は小学館、1974年 ISBN 4096210056
  • 松本政春『奈良時代軍事制度の研究』、塙書房、2003年 ISBN 482731179X
  • 鈴木拓也『古代東北の支配構造』、吉川弘文館、1998年 ISBN 4642023232
  • 野田嶺夫『律令国家の軍事制』、吉川弘文館、1984年、ISBN 4-642-02155-8
  • 橋本裕「軍毅についての一考察」、『律令軍団制の研究』(増補版)、吉川弘文館、1990年(初版は1982年発行)、ISBN 4-642-02244-9 に所収。論文初出は『ヒストリア』62号、1973年5月。
  • 山内邦夫「律令制軍団の成立について」、『律令国家』(論集日本の歴史2)、有精堂、1973年。

関連項目編集

外部リンク編集