相馬敏夫
経歴編集
長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身[3]。上平猶一の三男として生まれる[4]。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)から愛知県旧制熱田中学(現愛知県立熱田高等学校)へ転じ[3]、第八高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。大蔵省に入省し理財局属となる[4][5][6]。1923年、相馬半治の養子となる[3]。
以後、大蔵省銀行局勤務、英仏駐在・財務書記、横須賀税務署長、永代橋税務署長、東京地方専売局事業課長、専売局販売部販売課長、大蔵書記官・上海財務官事務所勤務、専売局参事官・長官官房総務課長、大蔵書記官・河内総領事、専売局煙草事業部長、大蔵省監理局長、東京都参事官などを歴任[4][7]。
1944年11月、栃木県知事に就任し終戦を迎えた。空襲被害者の救済、食糧増産などに尽力。1946年1月、知事を辞職し退官[5]。その後、公職追放となる[6]。
著作編集
- 編『煙草販売事務例規総攬』専売協会、1939年。
- 『キューバ訪問記』相馬敏夫、1972年。
- 編『砂糖屋のにがい思い出』[1] 不況カルテルから構造改善へ [2] 糖安法成立とその前後、[相馬敏夫]、1978年。