知里幸恵ノート

『アイヌ神謡集』の基礎原稿

知里幸恵ノート(ちりゆきえノート)は、アイヌ語母語とする女性、知里幸恵が祖母や伯母から聞き覚えたアイヌ民族に伝わる神謡カムイユカㇻ)や神歌(ウポポ)などの口承文芸作品を伝えるための出版をめざして、ローマ字を用い自らの工夫で書き綴った自筆の数冊のノート。

『知里幸恵ノート』画像番号7 北海道立図書館北方資料デジタルライブラリー

文化遺産としての価値 編集

『知里幸恵ノート』は2010年3月に北海道指定有形文化財に指定された。このノートは1923年に郷土研究社から出版された『アイヌ神謡集』の基礎原稿となり、綴られた伝承作品のうち13の神謡(カムイユカラ)が『アイヌ神謡集』に収められている[1]

また、このノートには「アイヌ神謡」(カムイユカラ)のほかにも、アイヌ語の口承伝承遺産として貴重な「神歌」(ウポポ)、ウウェケペレ(もの語り)、なぞなぞ、早口言葉など、ローマ字表記のアイヌ語と一部について日本語が併記、説明されている[2][3][4]文化庁の「文化遺産オンライン」においては、「刊行本『アイヌ神謡集』と比較研究する上で、また、アイヌ語を母語とし日本語にも精通する知里幸恵資料として貴重であるばかりでなく、明治・大正期を生きた一人のアイヌ民族の女性が遺した歴史遺産として極めて重要です」という紹介が記載されている[1]

アイヌ語の伝承遺産 編集

「知里幸恵ノート」により、知里幸恵の『アイヌ神謡集』の複数刊行本についての比較研究、アイヌ語とアイヌ語方言の研究が進められている[5][6][7][注釈 1]

版本との異動や作者による説明 編集

「知里幸恵ノート」は、20世紀前半期の日本語による優れた詩芸術作品としての『アイヌ神謡集』および著者の知里幸恵の研究に不可欠な基礎原稿であり、資料価値は高い[10][11][12][13]。刊行本との比較により、表現の異動が確認できる例がある。

例えば『アイヌ神謡集』の冒頭作品「梟(フクロウ)の神の自ら歌った謡 銀の滴降る降るまわりに」の14行目は "Pirka chikappo! kamui chikappo! 「美ィい鳥! 神様の鳥! 「ィ」は漢字文字「美」のフリガナで、著者は「いい鳥」と読み、「美い」(いい)と表現している。この冒頭箇所以降の「Pirka」について(続く2例は表現を「あの」に変えていることを除き)他はすべて「美い」ではなく「美しい」とし、著者は表現を使い分けている。『アイヌ神謡集』郷土研究社の初版本では「美い鳥! 神様の鳥!」と印刷(初版本は全体にフリガナはない)された。その後の複数の刊行本でも踏襲されていたが、岩波文庫版は初版から「美しい鳥!」と誤植している。財団法人北海道文学館(編)『大自然に抱擁されて… 知里幸恵『アイヌ神謡集』の世界へ』北海道文学館、2002年、所収の、抄録「知里幸恵ノート」でこの箇所は「美い鳥 神様の鳥」で文字「美」の上にフリガナの小さな文字「イ」を印刷している。[注釈 2]

なお、この謡の最後のところには(北海道立図書館所蔵北方資料デジタルライブラリーの画像16)では、知里幸恵が自筆でこの神謡への想いを 金田一京助へ書き記している[14]

「此の歌は非常に、聞いてると優しい美い感じが致します。この節(ふし)が私は大好きなのでございます」
 
『知里幸恵ノート』画像番号16 北海道立図書館北方資料デジタルライブラリー

また、ノートにはアイヌのウポポ(神歌)について、知里幸恵から金田一京助への説明書きがある[15]

「Upopo や Rimse はたく山ありますが、何の訳かわからないのが多々御座います。 とにかく、これは、みんな神を讚美する一つの美しい詩であると私は思います。私達の先祖は本当に詩人であったと思います。」
 
『知里幸恵ノート』画像番号95 北海道立図書館北方資料デジタルライブラリー

このノートに知里幸恵はウポポ(神歌)をアイヌ語と日本語で書き伝えている[16][注釈 3]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『アイヌ神謡集』は1923年の初版以来、複数の版本が存在している。
    • 『炉辺叢書 アイヌ神謡集』郷土研究社、1923年8月[8]※2002年7月に知里真志保を語る会より復刻
    • 『炉辺叢書 アイヌ神謡集』郷土研究社、1926年6月(再版)[9]※1976年11月に名著刊行会より復刻
    • 『炉辺詞曲 アイヌ神謡集』弘南堂書店、1970年9月(補訂再版)[8]
    • 『炉辺詞曲 アイヌ神謡集』弘南堂書店、1974年9月(再補訂版)[8]
    • 『炉辺叢書 アイヌ神謡集』岩波書店<岩波文庫>、1978年8月[8]
    「ノート」はそれらのオリジナルとなるものである。
  2. ^ 複数の辞書にも「美い」を「いい」とする読みは、項目としてあげられ用例が記載されている。
  3. ^ 知里真志保「アイヌ民族研究資料(第二)」の9(『知里真志保著作集』平凡社所収)に、この「知里幸恵ノート」をもとに整理註釈した知里真志保による「ウポポ(神歌)」のローマ字日本語対訳がある。
    「神様がお帰りになった

    美しい音をたてて…。」

    「太陽の上から神様が岩のそばへお降りになりました

    私等は岩の側の美しい音をききました。」

出典 編集

  1. ^ a b 知里幸恵ノート”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2021年6月19日閲覧。
  2. ^ 「『知里幸恵ノート』解説」知里幸恵(知里森舎「知里幸恵ノート」刊行部(編))『知里幸恵ノート 復刻版』5冊、知里森舎、2002年8月
  3. ^ 「第4章『アイヌ神謡集』関連書誌 1.遺稿『知里幸恵ノート』1 - 6」切替英雄(編著)『アイヌ神謡集辞典』大学書林、2003年、[要ページ番号]
  4. ^ 「知里幸恵ノート(および原稿)一覧」知里幸恵(北道邦彦(編))『ケソラプの神・丹頂鶴の神 : 知里幸惠の神』北海道出版企画センター、2005年、2-4頁
  5. ^ 佐藤知己「知里幸恵『アイヌ神謡集』の難読個所と特異な言語事例をめぐって」(PDF)『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第10号、北海道立アイヌ民族文化研究センター、2004年3月、1-32頁、ISSN 13412558NAID 40007214280 
  6. ^ 佐藤知己「六種対照『アイヌ神謡集』 (一) : 校本作成のための資料と本文をめぐる諸問題」『北海道大学文学研究科紀要』第115巻、北海道大学文学研究科、2005年、103-127頁、ISSN 13460277NAID 110006691379 
  7. ^ 北道邦彦「『アイヌ神謡集』諸版本の本文について」『炉辺叢書 アイヌ神謡集』復刻版、登別・知里真志保を語る会、2002年7月、巻末付録
  8. ^ a b c d 国立国会図書館サーチの書誌情報
  9. ^ 国立国会図書館サーチの書誌情報
  10. ^ 藤本英夫『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』2002年 草風館、212頁(14『炉辺叢書』)
  11. ^ 知里幸恵(北道邦彦(編注))『注解 アイヌ神謡集』北海道出版企画センター、2003年、13頁
  12. ^ 知里幸恵(北道邦彦(注解))『『アイヌ神謡集』を読む』北海道出版企画センター<北方新書>、2017年、21頁
  13. ^ 切替英雄(編著)『アイヌ神謡集辞典』大学書林、2003年、60頁
  14. ^ 「解題」北道邦彦(編)『ノート版アイヌ神謡集 改訂版』弘南堂書店、2000年、11頁
  15. ^ 北海道立図書館北方資料デジタルライブラリー画像95
  16. ^ 知里幸恵ノート北海道立図書館北方資料デジタルライブラリー部分画像88

外部リンク 編集