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神保 相茂(じんぼう すけしげ、天正10年(1582年) - 慶長20年5月7日1615年6月3日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将神保春茂の子。子に神保茂明。妻は杉若無心の娘。通称は長三郎。官途は出羽守。

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生涯編集

天正10年(1582年)、神保春茂の子として誕生。 越中国神保氏とは同族にあたり、春茂の系統は神保長誠から分かれたもので、代々紀伊国有田郡石垣鳥屋城に居住し畠山氏尾州家の家臣を務めていた。畠山氏没落後、父・春茂は豊臣秀長豊臣秀吉に仕え、大和国に6,000石を与えられた。

父の跡を継いだ相茂は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際して東軍に味方し、上杉景勝討伐に従軍して1,000石の加増を得る。

慶長20年(1615年)、大坂の陣では300の小勢ながら水野勝成隊に属して勇敢に戦うが、5月7日船場口にて明石全登隊が越前勢左翼を攻め崩したために水野勝成隊は混乱に陥り、激戦の最中神保隊馬上32騎、雑兵293人が全滅し、相茂も討死した。江戸幕府の公式記録『徳川実紀』(『台徳院殿御実紀』)は、神保主従は5月7日に明石隊との激戦の最中に全滅したとし、「此の戦に大和組の神保長三郎は、主従共に三十六騎馬同枕に討ち死にす」と記している。

戦後、相茂の子・茂明は直参旗本に取り立てられ、家門は大身旗本として交代寄合を勤めた。

伊達の味方討ち説編集

一説には、相茂の死は突如後方より味方の伊達政宗隊から鉄砲の一斉射撃を受けたためといわれている。この「伊達の味方討ち」に関しては、事件当時上方に批判的な風説が流れていたらしく、島津氏の『薩藩旧記』には「伊達殿は今度味方討ち申され候こと。然りともいえども御前はよく候えども、諸大名衆笑いものにて比興との由、御取沙汰の由に候」と書き記している[1]

これに対して神保遺臣が水野氏本多正純を介して伊達家に抗議したものの、伊達政宗は「神保隊が崩れかかってきたので、共崩れを避けるために撃った。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と開き直りとも取れる弁明をした(『大坂夏陣推察記』)。わずか7千石の外様である神保氏と60万石の大名伊達氏とでは争いにならず、結局伊達氏にはお咎めなしであった。

事件の詳細は不明で、伊達氏の弁明の他、誤射説、敵との誤認説、戦闘中に後藤基次隊ごと攻撃したとするもの、功名争い説の他、また上方の講談本『難波戦記』のように、船場口で休息を入れている神保隊に、有無をいわさずに伊達側が銃撃をくわえたとする説もある[2]

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ 『薩摩旧記』の記述によれば、270人が銃撃を受け、7騎にまで減ったとされ、政宗は諸大名衆の笑い者となり、卑怯者と噂されたと記されている。
  2. ^ 『難波戦記』は、日時、状況とも矛盾した2つの説を掲載している。1つ目は5月6日の伊達の片倉隊と真田信繁隊の激突(道明寺の戦い)の際に、真田勢に追われた神保主従が伊達の陣所に崩れかかったため、伊達の先方が、やむなく鉄砲と鎗で悉く討ち果たしたとする記述(東国勢はこれを政宗の裏切りと見て、疑心暗鬼に陥り、以後真田勢を追撃せず、双方で睨み合いが続いたという)。2つ目は、5月7日、明石全登と激戦を展開した後、政宗の陣所の脇で一息入れていた神保主従を、伊達側が味方と知りながら、味方だと連呼する神保勢の声を無視して、銃撃、殲滅したという記述である。編者は「伊達勢神保を討つことは、已に5月6日道明寺合戦の所に出でたり、長三郎ともに三十七騎死したる由、再び出づるは不審、但し両説を兼ねたるにや」と注釈を施している。