神聞勝命
概要編集
『常陸国風土記』香嶋郡条に登場する人物で、同書によると崇神朝に神が大坂山頂に白妙の大御服を着て顕現し、白鉾の御杖を取って神勅を下したとされる。そこで天皇は八十の伴緒を召集し、神託を下した神について問うと、大中臣神聞勝命が「大八嶋国は汝が知ろすべき国と言向け賜った、香嶋国に坐す天津大御神(鹿島神)の下された教戒です」と答えた。天皇はこの言を聞いて驚き恐み、太刀十口、鉾二枚、鉄弓二張、鉄箭二具、許呂四口、枚鉄一連、練鉄一連、馬一匹、鞍一具、八咫鏡二面、五色の絁一連の幣帛を神宮に奉納したとされる。
『常陸国風土記』には神聞勝命と倭武天皇に使える臣狭山命が登場することから、中臣氏本宗家である神聞勝命、国摩大鹿島命、臣狭山命の三代ほどが東国で活動した可能性がある[1]。
系譜編集
宝賀寿男による異説編集
宝賀寿男による主張は以下の通りである。 子とされる久志宇賀主命は国摩大鹿島命と同じ垂仁朝の人物とされ、これに従えば大鹿島命とは同時代の人物となる。また久志宇賀主命の別名を探湯主命ともいい、この探湯の名は託宣の名を持つ神聞勝命にも通じる。これらの理由から久志宇賀主命が実際には神聞勝命か大鹿島命のどちらかと同一人物と考えられる。その場合、大鹿島命の実際の父は神聞勝命、母は伊豆国造の娘である美加々比売命と見られる。しかし神聞勝命と久志宇賀主命は早くに別人化したものと見られ、『新撰姓氏録』では同人説と別人説の二種類の世系が記載されている[3]。
また鈴木真年の著した『華族諸家伝』や『日本事物原始』によると、崇神朝に兄勝命と弟勝命が玉祖氏の祖・小塩命に同行して東国に到来し、多摩郡で阿伎留大神と大麻止乃豆神を祀り、前者の後裔が武蔵国と伊豆国の卜部氏に、後者の後裔が常陸国の卜部氏や殖栗連となったとされる。この兄弟はどの系図でも神聞勝命とは別人とされるが、殖栗連は国摩大鹿島命の子・大楯命の後裔とされており、時期や居住地を考えても弟勝命と同一人物と見られる[4]。