秋山 正房(あきやま まさふさ)は、江戸時代前期の旗本。初めて定火消に任命された人物の一人であり、のちに大目付となった。通称は十右衛門[1]。初名は正俊(まさとし)[2][注釈 1]

 
秋山正房
時代 江戸時代前期
生誕 元和9年(1623年)
死没 元禄4年12月29日(1692年2月15日)
改名 正俊→正房
別名 十右衛門(通称)
戒名 了然[1]
墓所 東京都文京区千駄木養源寺
官位 従五位下修理亮
幕府 江戸幕府 定火消→御持弓頭→百人組頭→大目付
主君 徳川家光家綱綱吉
氏族 秋山氏
父母 父:秋山正重 母:柴田勝成の娘
兄弟 正房正家方頼正勝
正室:松浦隆信の娘
継室:津田正重の娘
正輔 ほか
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生涯編集

元和9年(1623年)生まれ[2]。父の秋山正重は当時2000石を知行する旗本であった[2](のちに4000石に加増され、最初の大目付4名のうちの1人となった[2])。寛永9年(1632年)11月1日、将軍徳川家光御目見した[1][3]

寛永17年(1640年)11月29日、父の死を受けて家督を継承[1]。明暦元年(1655年)4月10日、甲府城守衛の任に当たる[1]

万治元年(1658年)9月8日、新たに設置された定火消4人のうちの1人に任命される[1][4](相役は近藤用将内藤政吉町野幸宣)。同年閏12月28日、布衣を許される[1]

延宝元年(1673年)1月23日に御持弓頭[1]、天和元年(1681年)10月19日に百人組頭を歴任[1]。また、天和2年(1682年)4月21日には700石の加増を受け、知行高は合計4700石となった[1]

天和3年(1683年)2月2日、大目付に就任[1][5]。同年12月4日に従五位下・修理亮に叙任。

貞享2年(1685年)7月23日[1]徳川綱吉の前から退出する時に城中で道を間違え、御休息所に入り込むという失態を犯す[6][2]。重職にありながら粗忽の至りであるとして[1]、正俊は大目付を免職されて小普請入りとされ、閉門処分を受けた[1]。閉門処分は翌貞享3年(1686年)5月8日に解かれた[1]

元禄4年(1691年)12月29日没[1]、69歳[1]。駒込の養源寺(現在の東京都文京区)に葬られ、以後代々の葬地となった[1]

系譜編集

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[7]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

  • 父:秋山正重
  • 母:柴田勝成の娘
  • 正室:松浦隆信の娘
  • 継室:津田正重の娘
    • 男子(1):秋山正輔 - 家督を継ぐ
    • 女子(2):堀直定の妻
    • 女子(3):中根正冬の妻
    • 女子(4):折井正辰の妻

補足編集

  • 『寛政譜』では女子3人の生母について触れられていないが、「秋山系図」(『続群書類従』所収)によれば正輔と同様に正室津田氏の所生[8]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 『寛永系図』では「正俊」で記載している[1]。『寛政譜』でも「正俊」を踏襲しているが、呈譜によれば「正房」と注記されている[1]。『徳川実紀』では、御目見時に「正俊」、定火消就任以後は「正房」で記されている。

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『寛政重修諸家譜』巻第二百六、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.31
  2. ^ a b c d e 秋山正俊”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年12月5日閲覧。
  3. ^ 『大猷院殿御実紀』巻第廿一・寛永九年十一月朔日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第二編』p.266
  4. ^ 『厳有院殿御実紀』巻第十六・万治元年九月八日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第三編』pp.278-279
  5. ^ 『常憲院殿御実紀』巻第七・天和三年二月二日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第四編』p.122
  6. ^ 『常憲院殿御実紀』巻第十二・貞享二年七月廿三日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第四編』pp.202-203
  7. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百六、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.31-32
  8. ^ 「秋山系図」『続群書類従 5下』p.451

参考文献編集

  • 『寛政重修諸家譜』巻第二百六
    • 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/25

関連項目編集

外部リンク編集