稲飯命
記録編集
『日本書紀』・『古事記』によれば、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と、海神の娘の玉依姫との間に生まれた第二子(第三子とも)である。兄に彦五瀬命、弟に三毛入野命・神日本磐余彦尊(神武天皇)がいる。
『日本書紀』では、稲飯命は神武東征に従うが、熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さいもち)の神」になったとする。
『古事記』では事績の記載はなく、稲氷命は妣国(母の国)である海原へ入り坐(ま)したとのみ記されている。
後裔氏族編集
『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
考証編集
稲飯命について『日本書紀』には「鋤持神(さいもちのかみ)」と見えるが、関連して『古事記』の神話「山幸彦と海幸彦」でも「佐比持神(さいもちのかみ)」とあり、これらは鰐(わに)の別称とされる[2]。『古事記』の神話では、山幸彦(火遠理命)は海神宮から葦原中国に送ってくれた一尋和邇(一尋鰐)に小刀をつけて帰したという[2]。また以上から、「さい」とは刀剣を指すとも考えられ、鰐の歯の鋭い様に由来するとされる[2]。特に『日本書紀』神代上では「韓鋤(からさい)」、推古天皇20年条では「句禮能摩差比(呉のマサイ)」などと見えることから、大陸から伝来した利剣を表すともいわれる[2]。
また『新撰姓氏録』に見えるように、稲飯命には新羅王の祖とする異伝がある。これに関連する朝鮮側の記述として、12世紀の『三国史記』「新羅本紀」において、脱解尼師今(第4代新羅王;昔氏王統の初代)の出自について倭国東北千里の「多婆那国」とする記事があり、これを丹波国と関連づける説がある。ただし高麗の歴史書『三国遺事』(13世紀末に私撰)では、その出身地は「龍城国」であるとする。
脚注編集
- ^ 『群書類従. 第十六輯』(経済雑誌社、1898年-1902年、国立国会図書館デジタルコレクション)79コマ参照。
- ^ a b c d 佐比持神(国史) & 1985年.
参考文献編集
- 倉塚曄子 「佐比持神」『国史大辞典 第6巻』 吉川弘文館、1985年。ISBN 4642005064。