神武天皇

日本の初代天皇
この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字が含まれています(詳細)。

神武天皇(じんむてんのう、庚午[注 1]1月1日[1] - 神武天皇76年3月11日[2])は、日本初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日[2])。彦火火出見[2](ひこほほでみ)、あるいは狭野[1](さの、さぬ)。『日本書紀』での名は神日本磐余彦天皇(かみやまといはあれびこのすめらみこと)。

神武天皇
神武天皇御尊像』
1940年昭和15年)北蓮蔵

在位期間
神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日
時代 伝承の時代
先代 鸕草葺不合尊日向三代地神五代
次代 綏靖天皇

誕生 庚午[注 1]1月1日庚辰[1]
崩御 神武天皇76年3月11日 宝算127
陵所 畝傍山東北陵
漢風諡号 神武天皇
和風諡号 神日本磐余彦天皇
彦火々出見、狭野
別称 磐余彦帝、若御毛沼命、豊御毛沼命、始馭天下之天皇
父親 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊
母親 玉依姫
皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命
夫人 吾平津媛
子女 手研耳命
神八井耳命
神沼河耳命(綏靖天皇
(その他諸説は#系譜参照)
皇居 畝傍橿原宮
テンプレートを表示

『日本書紀』・『古事記』によれば天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫とされる。奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服し(神武東征)、畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)に遷都して日本国を建国したとされる人物。

実在した可能性のある最初の天皇は、崇神天皇であるという説もある[3]。その他の説については天皇の一覧を参照。

略歴編集

天孫(天照大御神の孫)・瓊瓊杵尊[注 2]の曽孫。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。『日本書紀』神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。兄に彦五瀬命稲飯命三毛入野命がいる。稲飯命は新羅王の祖ともされる。

『日本書紀』によると庚午[注 1](『本朝皇胤紹運録』によると1月1日庚辰の日)に筑紫日向で誕生。15歳で立太子[注 3]吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳のときに兄や子を集め東征を開始。日向から宇佐安芸国吉備国難波国河内国紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神大物主神)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)を正妃とし、翌年に初代天皇として即位した。『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると、即位日は西暦紀元前660年2月11日。皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命(かむやいみみ)、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみ、綏靖天皇)を得た。即位76年に、崩御

編集

  • 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと) - 『日本書紀』(和風諡号
  • 彦火火出見(ひこほほてみ) - 『日本書紀』(
  • 狭野尊(さののみこと、さぬのみこと) - 第十一段の第一の一書での幼名。
  • 神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといはあれびこほほてみのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第二・第三の一書
  • 磐余彦火々出見尊(いはあれびこほほてみのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第四の一書
  • 磐余彦尊(いはあれびこのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第二
  • 磐余彦帝(いわれびこのみかど) - 『日本書紀』継体紀
  • 神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)- 『古事記』
  • 若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』
  • 豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』
  • 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』(美称)

漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[4]

事績編集

 
神武天皇と八咫烏の肖像。 月岡芳年(1880年)
 
神武天皇。第一回国勢調査の表紙。1920年

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。

出立編集

神日本磐余彦天皇(神武天皇)のは彦火火出見(ひこほほでみ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の四男として庚午[注 1]1月1日庚辰の日)[1]日向国で生まれた。母は海神の娘の玉依姫である。生まれながらにして明達で強い意志を持っており、15歳のとき(甲申[注 4])に太子となった。長じて日向国吾田邑吾平津媛を妃とし、息子の手研耳命を得た。

甲寅年、45才(数え年)のとき兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命や諸臣を集め東征を提案し、塩土老翁が語った東方の美しい地(大和国奈良盆地)を紹介した。青山が四方をめぐり、その中に天磐船に乗って天降った神がいるという。饒速日命という物部氏の遠祖である。この地こそ都をつくり天下を治めるのに適した場所だろうと彦火火出見尊が言うと皆、賛成した。

10月、諸皇子と舟師(水軍)を帥(ひき)いて東征に出発。目指すは中洲(大和国)である。進んでいくと潮の流れの速い速吸の門で船が前に進めなくなった。難儀していると国神珍彦と出会い、これを舟に引き入れて海導者(水先案内)とすることで無事に筑紫国菟狭(『古事記』では豊国の宇沙)へ上陸することができた。珍彦は椎根津彦(『古事記』では槁根津日子)という名を与えられた。菟狭からさらに水門、安芸国を経た彦火火出見尊は、乙卯年3月吉備国に着き、三年間軍兵を整えた。

試練編集

 
『神武天皇東征之図』
八咫烏に導かれる神武天皇。冒頭掲載画像の全図である

戊午年2月、皇師(官軍、彦火火出見尊たち)は吉備国から東へ向かい難波の碕に至った。3月に河内国草香邑青雲白肩津から龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めなかった。そこで東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(大和国)へ入ろうとし、この地を支配する長髄彦孔舎衛坂で戦った。戦いに利なく、長兄の五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。そして日の神の子孫の自分たちが日に向かって(東に向かって)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟ることとなった。彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。

5月、五瀬命の矢傷が悪化し茅渟(和歌山市近辺)で亡くなった。船が熊野にさしかかると、海は大嵐になり高波に船は木の葉のように揉まれ海は荒れ狂った。進軍が阻まれることに憤慨した次兄、三兄の稲飯命三毛入野命が「私の母は海神である」と言い自ら海に入った。すると波も静かになり嵐は去った。なお稲飯命には新羅の王の祖であったと言う記録がある。

熊野に上陸したものの土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。そこへ熊野高倉下が現れ、霊夢を見たと称して天神から授かった神剣韴霊(ふつのみたま)を奉った。これはかつて武甕槌神が所有していた剣である。剣の霊力により軍衆は起き上がることができた。

進軍を再開したものの、軍衆は山をいくつも越えたところで道がわからなくなってしまった。すると天照大神が夢に現れて八咫烏を遣わし、その案内で軍勢は菟田下県に行きつくことができた。

8月、菟田県を支配する兄猾を討伐し、弟猾が恭順。続いて吉野を巡行して井光磐排別之子苞苴担之子と出会った。

9月、高倉山に登り周囲を見渡してみると四方要所はすべて賊に囲まれていた。その夜、夢に天神が現れた。お告げの通りに多くの土器を作り、丹生の川上天神地祇を祀った。このとき天の香久山から土を持ち帰った椎根津彦弟猾に功があった。

決戦編集

 
月岡芳年『大日本名将鑑』より「神武天皇」。神武天皇の弓の先に止まった金鵄が光を放ち、長髄彦軍の兵の目をくらませている。

10月、国見丘に八十梟帥を討ち、さらに多くの賊たちを偽りの宴会で誅殺した。11月、磯城を支配する兄磯城を討伐し、弟磯城が恭順。12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てなかった。すると急に黒雲が空を覆い、あたりも暗くなり、叩きつけるように雹が降ってきた。そして一筋の光が差したかと思うと金色の霊鵄が現れ彦火火出見尊の弓の先に止まり稲光のような瑞光を発した。長髄彦の軍はまぶしくて目も開けられず、ついに降参してしまった。

それでも長髄彦は恭順しなかった。彦火火出見尊が天神の子であることを疑ったからである。長髄彦は主君の饒速日尊が持つ神器である天羽々矢と步靫(かちゆき)を見せた。まさしく本物であり、彦火火出見尊も自分の神器を見せた。もちろんこれも本物である。長髄彦は彦火火出見尊を天神の子と認めたが、それでも屈服しなかった。そこに饒速日尊が現れ降参するよう長髄彦を説得したが、改める気持ちは無い長髄彦は饒速日尊に誅殺されることとなった。

己未年2月、彦火火出見尊は精鋭を選んで土蜘蛛を討ち破り、その場所を磐余と改めた。3月、中洲(大和国)の平定が終わったので畝傍山のほとりに全軍を招集し奠都の詔を高らかに宣言した(八紘為宇)。そして畝傍山の東南橿原の地に宮殿をつくらせた。そこが今の橿原神宮である。庚申年9月、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。

即位編集

辛酉1月1日橿原宮に初代天皇として即位した。そして正妃を皇后とした。この日付はグレゴリオ暦(西暦)だと紀元前660年2月11日であり、日本の「建国記念の日」(旧:紀元節)となっている。

即位2年2月2日、大業を成し遂げるのに尽くした人々の功を定め賞を行った。道臣命は築坂邑に、大来目は畝傍山の西の川辺の地(のちの来目邑、現在の橿原市久米町)に居住させ、珍彦(椎根津彦)を倭国造に、弟猾を猛田県主、弟磯城を磯城県主に任じ、剣根という者を葛城国造にそれぞれ任命した。また八咫烏にも賞があった。

即位4年2月23日、天下をすでに平定し終わり海内無事である旨を詔し、鳥見山中に皇祖天神をまつった。即位31年4月1日、巡幸して腋上の嗛間丘に登り、蜻蛉の臀呫(あきつ の となめ。トンボの交尾するさま)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。

即位76年3月11日、橿原宮に崩御。127歳。

翌年(丁丑年)9月12日畝傍山東北陵に葬られた。

始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称され、のち「神武天皇(じんむてんのう)」と諡された。

系譜編集

系図編集

『古事記』

 
神武天皇と比売多多良伊須気余理比売命までの系譜(『古事記』による)

『日本書紀』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天照大神素戔嗚尊
(記では天之冬衣神
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天忍穂耳尊大己貴神
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
瓊瓊杵尊事代主神
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火闌降命
 
 
 
 
 
火折尊鴨王
(神武と同世代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鸕鶿草葺不合尊(子孫は賀茂氏三輪氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天曽利命吾平津媛
 
 
1 神武天皇
 
 
 
媛蹈鞴五十鈴媛命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(子孫は隼人坂合部氏など)
 
 
手研耳命神八井耳命2 綏靖天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(子孫は多氏
 
 
 
 
 
 
 
  • 赤背景は女性。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
素戔鳴尊
 
 
 
天照大神
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天穂日命
 
天忍穂耳尊
 
天津彦根命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
出雲氏
 
瓊瓊杵尊
 
凡河内氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天火明命
 
火折尊
 
火須勢理命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾張氏
 
鸕鶿草葺不合尊
 
隼人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1 神武天皇
 


后妃・皇子女編集

 
歌川国芳『日本国開闢由来記』首巻より神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命

(特記以外は『日本書紀』本文による。「紀」は『日本書紀』を、「記」は『古事記』をさす。)

天照大神以降の配偶者
                           
 
 
 
天照大神(アマテラス)
 
 
 
 
 
 
須佐之男命(スサノオ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天忍穂耳命(アメノ オシホ ミミ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
栲幡千千姫(タクハタチヂ ヒメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
邇邇芸命(ニニギ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木花之佐久夜毘売(コノハナノ サクヤ ビメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火遠理命(ホオリ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊玉姫(トヨタマ ヒメ、アマテラスの姪)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鸕鶿草葺不合命(ウガヤ フキアエズ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
玉依姫(タマヨリ ヒメ、トヨタマヒメの妹)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若御毛沼命(ワカミケヌ、神武天皇、四男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメ タタラ イスズ ヒメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦五瀬命(ヒコイツセ、長男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稲飯命(イナイ、二男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三毛入野命(ミケイリノ、三男)
 
 
 
 
 
 
 
火闌降命(ホスソリ)- - - 隼人
 
 
 
 
 
 
 
火明命(ホアカリ) - - - 尾張氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天穂日命(アメノ ホヒ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天甕津日女神(アメノ ミカツ ヒメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
出雲氏
 
 

年譜編集

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。庚午年(誕生)と甲申年(立太子)は年齢から逆算したものであり、明記された干支は甲寅年(東征開始)が最初である[5]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

以後3年間は、手研耳の反逆により空位となった。

編集

『古事記』によると日向では高千穂宮にいた。東征中に宇佐の足一騰宮(あしひとつあがりのみや、『日本書紀』では一柱騰宮)、筑紫の岡田宮、安芸の多祁理宮(『日本書紀』では埃宮)、吉備の高島宮に立ち寄った。即位後の宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、『延喜式』では「畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)」、『古事記』では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記す。(なお白檮はカシと読み、ブナ科の常緑高木でアラカシの別称である。)このほか、『万葉集』にも「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」がみえる[6]。伝承地は奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮

「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷内務大臣山縣有朋に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。

明治44年(1911年)から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が大正6年(1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。

なお、昭和13年(1938年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から2600年前のものであり、その前後の誤差は±200年ということであった。このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある[7][8]

またこの時期、第二次拡張事業(昭和13年~15年、1938年~1940年)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))

なお、この事業は国費および紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。

陵・霊廟編集

 
神武天皇 畝傍山東北陵
奈良県橿原市

(みささぎ)の名は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ[9] に治定されている(北緯34度29分51秒 東経135度47分16.5秒 / 北緯34.49750度 東経135.787917度 / 34.49750; 135.787917 (畝傍山東北陵(神武天皇陵))[10][11][12][13]。ただし埋蔵文化財包蔵地とはされていない[9]。宮内庁上の形式は円丘。

記紀によると畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、[14] 神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。延喜式の第21巻の『諸陵式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1、南2町の広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。

江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。その後、文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決まり、幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年、神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。

確証に乏しい陵墓選定ではあったものの、明治時代以降には文字通り神格化が進んだ。1916年(大正6年)には、畝傍山中腹にあった洞村(208戸)が天皇陵を見下ろしているとして集団移転させられた出来事もあった[15]

現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

考証編集

歴史的位置づけについて編集

神武天皇が即位したという辛酉の歳は、そのまま西暦に換算すると紀元前660年であり、同時に弥生時代早期又は縄文時代末期に当たる。

明治時代の歴史学者である那珂通世は、1897年の著書『上世年紀考』で「日本書紀」の記述を批判して、「記紀の紀年は、古代中国由来の、「辛酉」の年に天命が改まり、王朝が代わり、同時に正しい改革も行われる、特に21回毎に大革命が起こるとする「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作であろう」と論考した。その上で那珂は、「推古天皇治世の最も輝かしい事跡が601年の辛酉にあったことから、その21回前の辛酉、つまり紀元601年からさらに60×21=1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう」と推測した。

大正時代には、津田左右吉は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学民俗学の成果を援用しつつ、「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とした。このため津田は「皇室の尊厳を冒瀆した」として出版法違反で起訴され、有罪判決を受けた(津田事件)。

津田の説に対する反論も存在し、神武の実在性を主張する論者もいる。安本美典は神武東征を邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。田中卓は初期天皇の皇后の出自伝承の素朴さが寧ろ帝系譜の信憑性を高めるとしている[16]宝賀寿男は『記紀』が古代の地理事情を残している点や、古代氏族の系図やトーテム・習俗、年暦に関する研究から天照大神から神武天皇までの皇統譜を実在のものとした[17]。田中や宝賀、古田は神武東征の出発地を北部九州とする点で安本や戦前の通説とは異なる。久保田穰は初期天皇の実在を直接示唆するのは『記紀』であるが、ほぼ同時期の万葉集風土記、その他史書や各種系図・神社伝承などが『記紀』の内容を支持するとした[18]。志賀剛は神武天皇の実在を認めつつ、宇陀郡出身の人物として想定し、東征の前半部分を虚構とする[19]武光誠は西方文化集団の畿内への到来と銅鐸消滅時期が一致することから神武天皇的な存在を認めている[20]

なお現在神武天皇の史学的立ち位置は「神武天皇の史的実在は、これを確認することも困難であるが、これを否認することも、より以上に困難なのである」であるとされる[21]

ギネス世界記録では、神武天皇の伝承を元に、皇室を「世界最古の王朝(英:dynasty)」としているが、発行物には「現実的には4世紀」と記載している。[22] なお実在が確実な継体天皇から数えても、現存する王朝としては世界最古にあたる。

即位年月日について編集

神武天皇の即位年月日は、『日本書紀』の記述に基づいて、明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。

日本書紀』においては、年月日は全て干支で記している。神武天皇の即位年月日は辛酉年春正月庚辰とある。

太陽暦(グレゴリオ暦)が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日である紀元節を太陽暦(グレゴリオ暦)の特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。

神武天皇の即位年は、『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算[注 5]すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと、西暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。また、この日を以って神武天皇即位紀元(皇紀)元年とする暦が主に明治・大正期から終戦(1868年 - 1945年)まで用いられた。

なお、『日本書紀』は「庚辰」が「」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日[注 6]は天文上のに当たる。

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ a b c d 日本書紀』の記載から換算すれば、紀元前711年となる。
  2. ^ 神武天皇自身は瓊瓊杵尊を「天祖」と呼んでいる。
  3. ^ 初代天皇の立太子は明らかに不合理であるが、父の彦波瀲武鸕鶿草葺不合命を天皇に準じて扱ったとも見られる。父がいつ崩御したかの記述は無いが、東征開始時に父を「皇考」(亡父の意)と呼んでおり、これ以前に崩じたと見られる。
  4. ^ 日本書紀』の記載から換算すれば、紀元前697年となる。
  5. ^ 干支年は、後漢建武26年(50年)に三統暦の超辰法をやめ(元和2年に正式改暦)以降は60の周期で単純に繰り返している。
  6. ^ 天文学上の記法では-659年2月18日、ユリウス通日は1480407となる。

出典編集

  1. ^ a b c d 本朝皇胤紹運録』。
  2. ^ a b c 日本書紀』による。
  3. ^ (井上 1973)P275
  4. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  5. ^ 『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410
  6. ^ 畝傍橿原宮(国史).
  7. ^ 「生命の教育」 平成8年5月号、季刊『生きる知恵』第9号「科学的根拠のある神武天皇伝説」東神会出版室
  8. ^ 樋口清之「日本古典の信憑性-神武天皇紀と考古学」『現代神道研究集成9巻』 神社新報社 1998年
  9. ^ a b 陵墓の治定と祭祀に関する第三回質問主意書”. 衆議院 (2010年11月30日). 2018年9月1日閲覧。
  10. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 400。
  11. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  12. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  13. ^ 畝傍山東北陵(国史).
  14. ^ 日本書紀』、巻第28
  15. ^ 真実からやっと神話へ『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月1日朝刊、11版、9面
  16. ^ 田中卓『日本国家の成立』1992年。
  17. ^ 宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
  18. ^ 久保田穰『古代史における論理と空想 邪馬台国のことなど』大和書房、1992年。
  19. ^ 志賀剛「大和朝廷の起源と発生」『日本の神々と建国神話』雄山閣出版、1991。
  20. ^ 武光誠『日本誕生』、1991年。
  21. ^ 国史大辞典』吉川弘文出版。
  22. ^ Oldest ruling house” (日本語). ギネス世界記録. 2021年6月26日閲覧。

参考文献編集

  • 井上光貞 『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6 
  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 植村清二 「神武天皇」中村一郎 「畝傍山東北陵」(神武天皇項目内)岡田隆夫 「畝傍橿原宮」上田正昭 「はつくにしらすすめらみこと」
  • 「神武天皇」 『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 
  • 近藤敏喬 編 『古代豪族系図集覧』東京堂出版、1993年、6頁頁。ISBN 4-490-20225-3 

関連項目編集

外部リンク編集