竇皇后(とうこうごう、? - 97年)は、後漢章帝皇后扶風平陵県(現在の陝西省咸陽市秦都区)の人。

竇皇后
後漢の皇后
在位 78年 - 88年

別称 章徳皇后
死去 永元9年(97年
埋葬 敬陵
配偶者 章帝
氏族 扶風竇氏
父親 竇勳
母親 沘陽公主
兄弟 竇憲
竇篤
竇景
竇瑰
竇貴人
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生涯編集

竇勳と沘陽公主(父は東海王劉彊)との間の長女として生まれた。幼い頃に人相見が竇氏を見て「大変高貴な身分に昇るだろう」と言った。美貌の持ち主で、書道に優れていたため、親戚たちは驚いたという。

建初2年(77年)、妹とともに宮中に参内した。章帝と馬太后から好印象を持たれたため、章帝の後宮に入った。翌年に皇后に立てられた。妹も貴人となった。

初め、章帝から大変な寵愛を受けたが皇子を産むことはできなかった。逆に宋貴人は皇太子の劉慶を産んだ。梁貴人は劉肇を産んだ。竇皇后はこのことを嫉妬して宋貴人や梁貴人を讒言した。宋貴人は自殺し、その子である劉慶も廃嫡されて清河王となった。また梁貴人は失意のうちに死去した。竇皇后は劉肇を自分の子として養育した。その後、竇皇后は後宮の者たちに恐れられた一方で、いっそう寵愛された。

章和2年(88年)に章帝が死去し、劉肇は即位した。皇太后として臨朝し、兄である竇憲らと政権を握った。一族は権勢を誇った。和帝は成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。

永元4年(92年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。和帝は政治の実権を取り戻すことに成功した。

永元9年(97年)に死去した。梁貴人の姉である梁嫕は上書して梁貴人の無実を訴えた。また大臣たちは「呂后のように尊号を奪われるべきである」と進言したが、拒否された。章徳皇后とされた。章帝の敬陵に合葬された。

参考文献編集