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竹永事件

太平洋戦争での日本軍集団降伏事件
捕虜となった竹永隊の将兵(後列)と、オーストラリア軍の兵士たち(前列)。アイタペに空輸される前に撮影された写真。左から3人目のオーストラリア軍人が、小隊長のC・H・マイルズ中尉。

竹永事件(たけながじけん)は、太平洋戦争末期の1945年昭和20年)5月3日竹永正治中佐[注釈 1]が率いる日本軍部隊が、東部ニューギニア(当時はオーストラリア領、現在のパプアニューギニア)でオーストラリア軍に集団降伏した出来事である。捕虜となることを極度に嫌った当時の日本軍において、きわめて珍しい組織的な降伏の事例だった。

事件の経過編集

1945年(昭和20年)3月から4月頃、日本陸軍第41師団歩兵第239連隊は、東部ニューギニア北岸アイタペen)南東内陸のトリセリー山脈en)南側(山南地区)で、追撃してくるオーストラリア軍と交戦中であった。竹永正治中佐率いる同連隊第2大隊約50名は、『第四十一師団ニューギニヤ作戦史』によれば3月24日から、東方へ後退しつつある連隊主力とは離れて、独断で西方へ移動を始めた[2]。ただし、竹永隊の小隊長の一人だった曹長の手記によると、逆に連隊主力の方が連絡もなく移動してしまったため、見捨てられたと判断して独自行動に移ったという[3]

4月中頃(村民によれば12日)、約45人の竹永隊は、家屋数戸のタウ村に食糧を求めて侵入した。投げ槍や手榴弾などで武装した村人が食糧を探し始めた日本兵を攻撃し戦闘となった。まもなく村人は逃げ去ったが双方に2人ずつの死者が出た。竹永隊は翌朝にタウ村を出たが、その後も付近にとどまった[4][5]

警察隊や住民からの通報で竹永隊の存在を知ったオーストラリア陸軍は、4月16日、第2/5大隊からC・H・マイルズ中尉の率いる1個小隊を選び掃討に派遣した[1]。4月24日、マイルズ小隊は竹永隊と接触して銃撃戦となり、日本側2人が戦死した[6]

ひとまず追跡を振り切った竹永隊であったが、それ以上は戦闘を続けずに投降することに決めた。兵が以前から所持していた降伏勧告ビラに、英文で降伏条件などを書き加え、棒に結びつけて後へ残した。マイルズ小隊の斥候がビラを発見して持ち帰った。5月2日、オーストラリア軍は西方のウォムグラー集落(南緯3度36分 東経142度35分 / 南緯3.600度 東経142.583度 / -3.600; 142.583 (ウォムグラー集落))付近で竹永隊を発見し、現地人を案内に立てて接触を図った。日本側から2人が軍使として訪れて交渉し、翌5月3日、竹永隊はウォムグラー集落で降伏して武装解除された。このときの兵力は竹永中佐以下42人(士官5人、准士官4人、下士官33人)で、軽機関銃5丁と小銃17丁、拳銃5丁、弾薬750発を装備していた[6]。捕虜たちは、マイルズ小隊に護送されてマプリック飛行場まで3日間の行軍を整然と行い、そこからアイタペへと空輸された。

日本側の他の部隊は、竹永隊が道に迷うなどして行方不明になったと考えて捜索していたが、オーストラリア軍が撒布したプロパガンダビラによって、竹永隊の降伏を知った[7]

降伏の決断過程に関する議論編集

竹永隊が降伏を決意した過程については、隊員全員の意思確認が行われたとする説と、幹部のみで決断したとする説がある。

高橋文雄およびその調査に依拠した秦郁彦の話によると、竹永中佐ら幹部が降伏で合意した後、全兵員が集められて意思確認が行われた。高橋と秦両は、生還者の証言として、中隊長の一人から降伏は大隊長の命令だと告げられたうえ、降伏に賛成の者は挙手するように求められたとする。そして、約半数の挙手しない者に対しては、手榴弾を支給するから直ちに自決するよう指示があったところ、最終的には全員が降伏賛成に変わったという[8]

これに対し佐藤清彦の話によると意思決定は幹部のみで行われて、全員の意思確認はされなかったとする。佐藤の話によれば、高橋および秦が挙げた証言者たちは、聞き取り調査を受けたこと自体を否定したという。そして、新たに行ったインタビューや小隊長だった曹長の手記から、士官と准士官だけの幹部会で意思決定がされ、下士官兵には命令伝達されただけだったと推論している[9][注釈 2]

背景編集

 
ウェワク地区で日本軍を攻撃するオーストラリア兵(1945年6月)

当時の東部ニューギニア戦線では、日本の第18軍が、連合国軍の前線の後方に取り残され戦略的には遊兵と化した状態で、なおも戦闘を続けていた。連合国側のうちアメリカ軍は、アイタペの戦いで第18軍の反撃を撃破した後は日本軍を放置していたが、1944年後半にニューギニア戦線を引き継いだオーストラリア軍は、徹底的な掃討戦を行う方針で日本軍を追撃した。

日本軍の海上補給線は遮断されており、しかもアイタペの戦いで最後の物資の多くを失ったため、戦力は著しく低下した状態にあった。1個師団の兵力は本来の戦時編制ならば2万人近くなるところ、1945年5月上旬にはわずか1千人前後に落ち込んでいた[11][注釈 3]。竹永大隊とて例外ではなく、大隊と言っても実数は小隊規模、しかも本来の歩兵は約半数だけで、残りはアイタペ戦で全火砲を失って解隊された山砲兵第41連隊の生き残りや海軍兵であった。大隊長の竹永中佐自身も専門は砲兵で、山砲兵第41連隊第3大隊長からの転任だった。第18軍主力の食糧および医薬品は1945年9月末で尽き、兵器も年末には機能を失うと見られていた。7月には、1個玉砕を根底に置いた、日本軍としても異例の軍命令(猛作命甲第371号)が発せられる極限状況だった[12]。ある少尉は、最末期の状況を、もはや軍人ではない乞食の集まりになっていたと回想している[13]

当時のニューギニアの日本軍の極限的状況を示す出来事として、人肉食の発生が指摘される。竹永隊についても人肉食を行っていたとする見方がある。投降直前にタウ村で殺害した住民の肉を食べたとの嫌疑があり、オーストラリア軍が捜査を行っている。捕虜尋問の結果、一部の隊員の関与を認める証言が得られたが、実行者は戦死しているとされて不起訴となった。ほかに自身の関与を認めた生存者の戦後の手記もある。田中利幸は、竹永隊の将兵が健康で規律が取れていたとオーストラリア軍が記録していることから、隊全体で一団となって人肉食を常習していたと推測している[5]。これに対し佐藤清彦は、関与を認めつつも組織性は否定している手記の記述などから、田中の見解は疑問だとしている[14]

こうした絶望的戦況であっても、当時の日本では、戦陣訓に象徴されるように、敵軍の捕虜となることは甚だしく不名誉とみなされていた。陸軍刑法でも、司令官が部下を率いて降伏することを辱職罪の一種とし、特に野戦では尽くすべきところを尽くした場合でも禁錮6月に処すると規定していた(41条)。安達二十三第18軍司令官も、1945年3月18日に、絶対に虜囚の辱めを受けるなとの命令を発していた。実際、日本軍が組織的に投降した事例は極めて珍しかった。建制の部隊が投降したのは、太平洋戦争では竹永隊のほかに、後述する同じニューギニアの事例2件と沖縄戦での海上挺進第1戦隊(梅沢隊、座間味島守備)が挙がるくらいである[15]。ただし、竹永隊以前に皆無というわけではなく、日露戦争奉天会戦後1905年5月に、第1師団歩兵第49連隊の1個中隊(生存者42名)が丸ごと捕虜となった事例があった[16]

他方、オーストラリア軍側にも日本兵の降伏を受け入れずに殺害する傾向があった。捕虜は取らずに皆殺しにするという暗黙の了解がオーストラリア軍の前線兵士に成り立っており、軍幹部もこれを黙認していた[17]

その後編集

捕虜となった竹永隊の日本兵たちは、アイタペに1か月ほど滞在したのちラエやオーストラリア本土の捕虜収容所へと分散して移送された。捕虜収容所での待遇は良好であった。全員に対し捕虜尋問が実施され、特に竹永中佐は本格的な追加尋問のためマニラへ移送された。尋問の中で竹永中佐は、第18軍の指揮官たちの人物評や、「天皇が殺害されれば日本国民は最後まで抵抗するだろうが、天皇の命令があれば素直に降伏するだろう」旨などを答えている[18]。竹永隊では、捕虜尋問に備えて投降前に虚偽の部隊名や人名を取り決めていたが、オーストラリア側はウェワクでの鹵獲文書から嘘と見抜いていた。なお、一部の捕虜は、鹵獲文書の翻訳や投降勧告用のプロパガンダ放送などに協力している[19]

竹永隊の降伏後も、第18軍は同年8月15日の終戦の日まで東部ニューギニアでの戦闘を継続した。竹永隊に代わって新たな人員で歩兵第239連隊第2大隊も再編成された[注釈 4]。しかし、この再編された第2大隊も、終戦直前の8月に隷下のうち2個中隊が相次いでオーストラリア軍に集団投降している。オーストラリア軍の記録によると、8月10日に大尉以下13人、8月11日に大尉以下17人が投降した[21]。原因はオーストラリア軍の投降勧誘のほか、竹永隊の前例に影響されたとも、死守命令がきっかけになったとも言われる[22]。アイタペ戦後の第18軍将兵の生還率はわずか25%で、竹永隊の生還率84%(アイタペ戦後の兵力50人中42人生還)を大きく下回った[23]

竹永隊の降伏は、戦時中は日本軍内では非常に不名誉な行為とみなされた。事件を知った安達第18軍司令官は、第41師団長らを強く叱責したり[7]、自らの不徳として涙を流して天皇への詫びを口にしたりしていた[24]。戦後になっても不名誉との評価が支配的で、竹永事件に光が当たることは長らく無かった。第41師団関係者による部隊史『第四十一師団ニューギニア作戦史』には投降の事実が記録され、防衛庁編纂の戦史叢書にも指揮官名を伏せて引用されたものの[2]、あたかも竹永隊は全滅したかのように述べる部隊史などもあった。1986年(昭和61年)の高橋文雄の記事により次第に関係者以外にも認知されるようになったが[25]、なおも降伏の事実を否定する軍関係者もおり、例えば第18軍参謀だった堀江正夫(事件当時少佐)はNHKインタビューに対し、「今まで投降など聞いたことが無かったし、投降した者はいなかったと信じている。指揮官の投降が事実なら残念である」旨を答えている[26]

竹永隊の元隊員たちは、他部隊の捕虜とともに戦後に日本に復員した。戦友会に参加せず、取材などにも応じずひっそりと生活する者が多かった。竹永元中佐も現場作業員として民間企業に勤め、1967年(昭和42年)に病死した。陸軍士官学校の同期生らは特に竹永を差別することなく、葬儀に参列している[27]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ オーストラリア軍公刊戦史では、“Takenaga”ではなく“Tagenaka”と音写表記されている[1]
  2. ^ なお、佐藤が高橋に事情を確認したところ、高橋は証言者はすでに死亡したと偽り、また『歴史と人物』掲載の記事については一定の脚色を行ったことをほのめかしたという[10]
  3. ^ 兵器も第41師団と第20師団を合わせて迫撃砲1門、重機関銃20丁、軽機関銃24丁しか残っていなかった。小銃すら不足し、弾薬も銃1丁につき20-30発であった。
  4. ^ 書類上の編制は、大隊本部と2個歩兵中隊、1個機関銃中隊から成る。実力は竹永隊と同じく1個小隊規模で、重機関銃1丁を持つだけだった[20]

出典編集

参考文献編集

  • NHK「戦争証言」プロジェクト『証言記録 兵士たちの戦争〈3〉』日本放送出版協会、2009年。ISBN 978-4140813447
  • 佐藤清彦『土壇場における人間の研究―ニューギニア闇の戦跡』芙蓉書房出版、2003年。ISBN 978-4829503348
  • 田中利幸『知られざる戦争犯罪-日本軍はオーストラリア人に何をしたか』大月書店、1993年。ISBN 978-4272520305
  • 秦郁彦、高橋文雄「第19章 日本軍前代未聞の集団投降」『日本人捕虜―白村江からシベリア抑留まで(下)』原書房、1998年。ISBN 978-4562030729
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『南太平洋陸軍作戦(5)アイタペ・ブリアカ・ラバウル』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1975年。ASIN B000J87R9A
  • 吹浦忠正『捕虜の文明史』新潮新書〈新潮選書〉、1990年。ISBN 978-4106003875
  • Long, Gavin (1963年). “Volume VII – The Final Campaigns” (英語). Australia in the War of 1939–1945. Series 1 – Army, Australian War Memorial. 2010年8月6日閲覧。

関連文献編集

  • 高橋文雄 「日本軍前代未聞の集団投降」『歴史と人物』昭和61年夏号、中央公論社、1986年。

関連項目編集

外部リンク編集