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沿革編集

太平洋戦争序盤の攻略が順調に進捗したが、ヤルートを拠点としていた横浜海軍航空隊(浜空)をラバウルに前進させる必要性が生じた。しかしハワイからミッドウェー島方面の哨戒部隊を維持する必要もあったため、チモール島に進出していた東港海軍航空隊(東港空)から1個飛行隊を捻出し、浜空の残留1個飛行隊と連合して特設の飛行艇航空隊をヤルートに残留させることとした。そこで昭和17年(1942年)4月1日、東港空飛行隊の第1陣が到着したことを受けて、二代目となる十四空を立ち上げた。しかし、東港空飛行隊の合流は1ヶ月かかったうえ、最終便2機が全損したため、編制当初から定数に達していない。

昭和17年編集

以後、イミエジに本隊、マキン環礁に分遣隊を置き、ギルバート諸島ナウルオーシャン島方面の哨戒に従事。

  • 8月17日 マキンに敵海兵隊上陸。機体は不在で損害なし、地上要員に死傷者多数。

マキン奇襲部隊撤収後に分遣隊復帰、マキンの駐留再開。

  • 10月1日 二式水上戦闘機12機を追加。
  • 11月1日 第八〇二海軍航空隊に改称。第十一航空艦隊附属に転属。

昭和18年編集

  • 9月1日 第十一航空艦隊第二十二航空戦隊に転属。
  • 9月14日 マキンより1機でエスピリッツサント島を空襲。
  • 9月18日 マキン空襲。機体全損。
  • 10月21日 水上戦闘機隊を第九〇二海軍航空隊に移譲。
  • 11月14日 ギルバート諸島・マーシャル諸島全土に大空襲。イミエジ基地で3機喪失、ウォッゼ環礁に撤退。
  • 12月7日 二十二航戦所属部隊はマリアナ諸島に撤退・6機に回復、マーシャル防衛は第二十四航空戦隊が継承。

鴨遊波夫司令以下、司令部および基地要員の多くはウォッゼに残留。

昭和19年編集

鴨司令は救出を断固拒絶し、40名の要員を優先的に収容させ、2月13日の艦砲射撃で戦死。

  • 2月12日 八〇一空2機と共同で1機がクエゼリン環礁ルオット島を空襲。
  • 4月1日 サイパン島で解隊。残存機は八〇一空に合流。

飛行艇の運用が困難になったうえに、「あ号作戦」準備のためにマリアナ諸島には多数の陸上機部隊が集結し、飛行艇に割く物資および人員が確保しにくくなった。実戦に向かない八〇二空は内地に送還され、本土近海の哨戒活動に充てるために八〇一空に合流した。

主力機種編集

歴代司令編集

  • 中島第三:昭和17年4月1日-
  • 鈴木由次郎:昭和18年3月1日-
  • 鴨遊波夫 大佐:昭和18年10月25日-昭和19年2月13日ウォッゼ島空襲で戦死
  • 昭和19年4月1日解隊

脚注編集

  1. ^ 内令、達号、辞令公報ほか「海軍省が発行した公文書」では、海軍航空隊番号付与標準制定(1942年11月1日)前の2桁番号名航空隊は航空隊名に「海軍」の文字が入らず漢数字の「十」を使用する。海軍航空隊番号付与標準制定後の2桁番号名航空隊は他の3桁番号名航空隊と同様、航空隊名に「海軍」の文字が入り、漢数字の「百」や「十」は使用しない。

関連項目編集

参考文献編集

  • 『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)
  • 『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)
  • 『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)
  • 『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)
  • 『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦1』(朝雲新聞社 1970年)
  • 『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦2』(朝雲新聞社 1973年)
  • 『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』(アテネ書房 1996年)