篠原 一致(しのはら かつむね、寛永11年(1634年) - 元禄11年(1698年))は、江戸時代前期の加賀藩士。人持組・篠原別家第4代当主。通称は三郎、監物。別名に重好。戒名は盛徳院殿寛翁英峯日慶居士。石高、3000石(2500石)。家紋は、左二つ巴。菩提寺日蓮宗・立像寺。

先妻は加賀八家・奥村易英(因幡守)の娘、法眼院殿観月栄真大姉。後妻は易英の嫡男・奥村和忠の娘、天久院殿少室妙林大姉。嫡男の勘六が早逝したため、次男の市正一脩(妻は加賀八家・奥村悳輝の娘)が第5代当主となる。

生涯編集

父は、1万石以上の禄高は回復されなかったものの一旦断絶した「別家」を継承して第3代当主となった篠原重一(家老・篠原一孝・17000石の四男)。母は、今枝直恒(嫡男・今枝近義の正室は、篠原長次の娘)の娘。弟の頼母(重安)に500石を分け、2500石になる(この500石は、頼母の子が、末期養子によって7代当主・篠原帯刀一定となり、「別家」に戻って、再度3000石となる)。

新井白石をして「加賀は天下の書府なり」と言わしめた藩主・前田綱紀の時代に、寛文3年(1663年)から元禄11年(1698年)の30年以上にわたり、幕府高家の職掌にあたるの重職・奏者番を務めている。その間、江戸詰も多く、要人(諸大名)を接待している。元禄11年、死去。野田山墓地(篠原別家墓地)に葬られる。

参考文献編集

  • 「加賀藩-諸氏系譜」(巻之十九)金沢市立玉川図書館・近世史料館。
  • 『加能郷土辞彙』(改訂増補・復刻版)日置謙、1973年、北國新聞社。
  • 『篠原出羽守家代々記』篠原一宏・篠原美和子、2007年。
  • 「加賀藩篠原家の祖 篠原弥助長重の『謎』」篠原雅樹、石川県人会広報(連載シリーズ-第36号、第37号、第39号)、2011年-2012年。