純映画(じゅんえいが、英語Pure Cinema)は、プロット (物語)や架空の人物、俳優を用いることに対抗して、自治的な映画技法を用いることで、ひとりの映画作家がより感情的に激しい体験をつくりだすことができる、という映画理論である。

フランス1920年代 - 1930年代前衛映画運動については「純粋映画」を参照。

概要 編集

セルロイドをもって提供されるほとんどすべてのほかのものと違って、文学や演劇といった芸術の前任者から引かれるリンクもキャラクターも、「純映画」は拒絶する。経年で進化してゆく連続体の一部分としての映画作品を観ることよりも、「純映画」は、ほかのなにものからも借りるべきではないユニークな芸術形式たろうとする映画であると誓う。そのようにして「純映画」は、非物語、非配役の映画からできあがる。モンタージュクレショフ効果)、カメラの運動とカメラアングル、音響視覚的関係、字幕とそのほかのオプティカル効果(光学合成)、そして視覚的構成といった、ユニークな映画的ディヴァイスを通じて抽象的な感情体験を伝えるのである。

「純映画」の偉大なる例示は以下の通りである。

参考文献 編集

関連項目 編集