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耶律突欲(やりつ とつよく、899年 - 937年)は、キタイ(契丹)帝国皇太子東丹国の国王。図欲とも呼ばれる。漢風の姓名は劉倍(または耶律倍)。キタイ帝国初代皇帝耶律阿保機(太祖)の長男。第2代皇帝太宗の兄。第3代皇帝世宗の父。母は月里朶(ユリド、述律皇后)。モンゴル帝国の中書令の耶律楚材は彼の9世の後裔である。諡号譲国皇帝廟号義宗

東丹国王 耶律突欲
東丹国
国王
王朝 東丹国
在位期間 甘露元年(926年) -甘露11年(936年
都城 天福城
姓・諱 耶律突欲
諡号 文武元皇王
生年 光化2年(899年
没年 天顕11年閏11月26日937年1月11日
太祖
述律皇后
年号 甘露
遼義宗 耶律突欲
大契丹国
追尊皇帝
王朝 大契丹国
都城 皇都
姓・諱 耶律突欲
諡号 文献欽義皇帝
廟号 義宗
生年 光化2年(899年)
没年 天顕11年閏11月26日(937年1月11日)
太祖
述律皇后
后妃 端順皇后
柔貞皇后
陵墓 顕陵

目次

略歴編集

899年、耶律阿保機の長男として生まれる。916年、キタイ帝国成立とともに皇太子に立太子された。父の華北遠征などに従い、タングート沙陀族李存勗後唐)らと戦う。926年には同母次弟の耶律堯骨らとともに渤海へ攻め入り、これを滅ぼした。キタイは渤海国を改めて東丹国とし、国王に突欲をすえ、阿保機を「天皇帝」、ユリド皇后を「地皇后」、突欲を「人皇王」と称することとなった。しかし同年、阿保機が急死すると、母ユリドと不和だった突欲は東丹国王のままとどめられ、翌年弟の堯骨がキタイ皇帝位を継ぐようユリドから指名された(太宗)。

兄の突欲を警戒した太宗は、東丹国の政府首脳ともども突欲を遼陽へ集住させ、監視下に置く。これを知った沙陀族(後唐)の李嗣源は、突欲に亡命を促した。突欲はこれに応じ930年山東半島の登州に渡り、亡命する。喜んだ李嗣源は、突欲を「東丹慕華」の名をもって歓待し、さらに国姓の賛華の名を与え、滑州節度使に任命した。

だが、933年、李嗣源が死亡し、養子の李従珂らが権力を握ると、後唐国内は混乱に陥った。突欲は過去に亡命してきたにもかかわらず、同母次弟の耶律堯骨(太宗・劉徳光)に後唐への介入を促し、太宗もまたそれに応じて、石敬瑭後晋を建国)を支援し、後唐を滅亡させた。この経緯に恨みを持った李従珂が放った刺客により、突欲は暗殺された。

927年、日本に対し使者を派遣している。(渤海使

家族編集

  • 妻妾:蕭氏、蕭氏、大氏、高氏、夏氏
  • 男子:耶律兀欲(世宗)、耶律婁国(字は勉辛、武定軍節度使、南京留守)、耶律稍、耶律隆先(字は団隠、平王)、耶律道隠(字は留隠、晋王)

伝記資料編集

参考文献編集