花山院 忠頼(かさんのいん ただより)は、鎌倉時代初期の公卿右大臣花山院忠経の長男。官位従三位

 
花山院忠頼
時代 鎌倉時代初期
生誕 正治元年(1199年
死没 建暦2年12月19日1213年1月12日
官位 従三位
主君 土御門天皇順徳天皇
氏族 花山院家
父母 父:花山院忠経、母:一条保子(一条能保の娘)
兄弟 忠頼忠輔定雅経雅師継、経子
養兄弟:宣経
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経歴 編集

正治3年(1201年)正月6日に従五位下叙爵建仁3年(1203年)に従五位上・侍従に叙任され、元久2年(1205年)正月5日に正五位下に昇叙。同年3月に禁色を聴された。元久3年(1206年)正月17日に従四位下建永2年(1207年)正月13日には備前介に任ぜられ、承元2年(1208年)従四位上・右近衛中将となる。

承元3年(1209年)正月13日に播磨権介を兼ねて、承元5年(1211年)正月5日に正四位下に昇叙。建暦2年(1212年)正月5日に14歳にして従三位に叙せられて公卿に列し、清華家の嫡男として順調に昇進するが、同年12月より病に倒れる。18日には祈禱療治も効果がないほどとなり、19日の朝に薨去した[1]。享年14。嫡男でかつ才能があり、藤原定家は日記『明月記』の中で両親の心中を察するべしとその死を悼んだ。

脚注 編集

  1. ^ 明月記建暦2年12月18日/19日条。

参考文献 編集

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年