菅又 薫(すがまた かおる、1873年6月2日[1] - 1950年4月26日[2])は、日本の医師政治家衆議院議員(2期)。

菅又薫
すがまた かおる
生年月日 1873年6月2日
出生地 日本の旗 日本 栃木県
没年月日 (1950-04-26) 1950年4月26日(76歳没)
出身校 東京医学専門学校
(現東京医科大学)
前職 医師
所属政党 (無所属→)
(日本進歩党→)
民主党

選挙区 (栃木県第1選挙区→)
栃木県全県選挙区
当選回数 2回
在任期間 1942年 - 1947年3月31日


塩谷郡会議員

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経歴

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栃木県出身[3]。東京医学専門学校(現東京医科大学)に学び、医師免許を取得後、1907年故郷で病院を開業する(菅又病院[3]。その後北高根沢村(現・高根沢町)長、塩谷郡会議員、栃木県会議員などを務める[3]。この間、1932年に北高根沢村の隣の阿久津村(現・高根沢町)で起きた栃木県最大の小作争議阿久津村事件)の調停に立った。

1942年第21回衆議院議員総選挙で非推薦で立候補して当選する。戦後の1946年第22回衆議院議員総選挙では日本進歩党から立候補して再選される。日本進歩党では総務委員となった[3]。翌年の第23回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退した。1950年死去。

脚注

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  1. ^ 衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、12頁。
  2. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』328頁。
  3. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』327頁。

参考文献

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  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク

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