董寛信
董 寛信(とう かんしん)は、紀元前1世紀の中国、前漢の時代の人物である。紀元前2年から紀元前1年に若くして駙馬都尉をつとめ、失脚して流刑になった。
解説
編集董寛信は董恭の子で、董賢の弟にあたる。元寿元年(紀元前2年)12月、董賢が駙馬都尉から大司馬に昇進したとき、兄の後をうけて駙馬都尉になった[1]。
当時22歳の董賢は、哀帝から寵愛されていた。董恭は董寛信の妻に中郎将の蕭咸の娘を望んだが、蕭咸は董賢への寵愛が格別なものだと畏れ、自らを卑下して断った[2]。
哀帝が翌元寿2年(紀元前1年)6月に病死すると、董賢はただちに失脚して自殺した[3]。7月、董恭と董寛信は合浦郡に流刑になった[4]。
脚注
編集- ^ 董寛信が董賢の後任で駙馬都尉になったことについては、『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢(ちくま学芸文庫『漢書』7の530頁)。年月は、『漢書』巻19下、百官公卿表第7下、元寿元年、大司馬の欄に董賢が12月に駙馬都尉から大司馬になったと記す(『『漢書』百官公卿表訳注』221頁)。
- ^ 『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢。ちくま学芸文庫『漢書』7の531 - 532頁。
- ^ 『漢書』巻12、平帝紀第12(ちくま学芸文庫『漢書』1の347頁)。『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢(ちくま学芸文庫『漢書』7の532 - 533頁)。
- ^ 『漢書』巻12、平帝紀第12(ちくま学芸文庫『漢書』1の347頁)。『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢(ちくま学芸文庫『漢書』7の534頁)。
参考文献
編集外部リンク
編集- 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。