董 賢(とう けん、前23年 - 前1年)は、その眉目秀麗なる容姿から前漢哀帝の寵愛を受けた官人。哀帝の死後は権勢を失い自殺に追い込まれた。字は聖卿。

董賢

生涯編集

董賢は御史であった董恭の子として生まれた。当初は太子舎人となったが、哀帝即位後は様々な官職を転任していた。前4年、哀帝は眉目秀麗な少年に成長した董賢に心奪われ、以後董賢は帝の男色相手として寵愛されるようになった。

寵愛を受けた董賢は大司馬に任じられ、妹を昭儀(漢代の後宮女官の位)として後宮に迎え入れ、また妻も入宮し侍奉することが認められるという、破格の待遇を与えられた。帝は董賢を寵愛することすこぶるで、彼を片時も側から離さなかった。ある日のこと、共に昼寝をしていた二人のうち哀帝が先に目を覚ましたが、横には自分の衣の大きな袖の上に董賢がまだすやすやと眠っていた。ここで自分が立ち上がろうとすれば董賢を起さざるを得ないが、それはいかにも忍びないと感じた哀帝は、人に命じて董賢が横たわっていた方の袖を切り落とさせた。この故事が男色の別称のひとつである「断袖」(だんしゅう)の由来である。

過度な寵愛は董賢一族に経済的、政治的な恩恵が与えられたばかりか、董賢の僮僕にまで賞賜が与えられた。その後哀帝は董賢を侯に封じた。反対した丞相王嘉はその後加増の詔を差し戻すという事態となり、王嘉はそれが元で罪を得て投獄され絶食し命を絶っている。またの故事を引き合いに禅譲までも申し出たが、これは中常侍王閎に諫言され撤回している。

元寿2年(前1年)に哀帝が崩御すると、哀帝は董賢に皇帝の璽綬を託した(次の皇帝の決定権を与えたことになる)。そこで王閎が太皇太后王氏(王政君)に璽綬を奪うよう進言し、王閎は武装して宮殿に入り董賢から璽綬を強奪した。これにより董賢は政治基盤を失う。太皇太后王氏は董賢を朝廷より遠ざけ、また年少との理由で大司馬の職を解いた。この詔勅が出された当日、董賢は妻と共に自殺した。なお彼の後任が王莽である。死後は財産は没収され、一族は各地に流刑となった。