蔡培
蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年)は、中華民国の政治家・外交官。南京国民政府(汪兆銘政権)で南京市長、駐日大使などを務めた。字は子平。
蔡 培 Cai Pei | |
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『最新支那要人伝』1941年 | |
生年月日 | 1884年 |
出生地 |
清 江蘇省常州府無錫県 (現:無錫市) |
没年月日 | 1960年(77歳没) |
死没地 | 中華人民共和国 上海市 |
所属政党 |
中国国民党→ 中国国民党 (汪兆銘政権) |
在任期間 | 1940年6月 - 1942年1月 |
蔡培 | |
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職業: | 政治家・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 蔡 培 |
簡体字: | 蔡 培 |
拼音: | Cài Péi |
ラテン字: | Ts'ai P'ei |
和名表記: | さい ばい |
発音転記: | ツァイ ペイ |
事跡
編集清末に日本に留学する。1912年(民国元年・明治45年)に早稲田大学専門部法律科を卒業し、併せて法学士の称号を取得した[1]。帰国後は、柳亜子らが組織した南社に所属し、衆議院議員にもなった。1928年(民国17年)1月、国民政府交通部秘書となる。6月、参事となった。1930年(民国19年)1月、交通部航政司司長となる。1935年(民国24年)8月、内政部民政司司長に異動した。
1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を組織すると、蔡培は工商部政務次長に任命された。6月、南京特別市市長に任命される。翌年12月、糧食管理委員会委員長に異動した。以後、行政院政務委員、国民政府政務参賛を歴任する。1943年(民国32年)3月、駐日大使となった。1945年(民国34年)5月、大使から退き、帰国して国民政府委員となった。
日本敗北後の9月、蔡培は漢奸として逮捕され、上海提藍橋監獄に収監された。1946年(民国35年)7月、上海高等法院で蔡培は「中日親善」を推進したなどの罪により死刑を言い渡される。上告後の翌年11月に、最高法院で無期懲役に減刑された。中華人民共和国建国後も引き続き上海で収監された。1956年8月、医療を付される。
1960年、病没。享年77。
注
編集- ^ 早稲田大学校友会(1934)、320頁。
参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 『上海監獄志』第3編第5章第1節「漢奸案件」(上海地方志弁公室ホームページ)
- 『上海監獄志』第11章第3節「抗戦勝利後提藍橋監獄関押的部分漢奸犯簡介」(同上)
- 『上海監獄志』大事記(同上)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 『早稲田大学校友会会員名簿 昭和十年用』早稲田大学校友会、1934年。
中華民国(汪兆銘政権)
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