蕭瑞臣
蕭 瑞臣(しょう ずいしん、生年不詳 - 1949年?)は中華民国の政治家。日本軍が河南省を占領した後に、河南省自治政府主席や中華民国臨時政府河南省政府公署省長を務めた。しかし、出自や前歴などについては不明点が多い人物である。
蕭瑞臣[1] | |
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プロフィール | |
出生: | 不詳[2] |
死去: |
1949年? 中国共産党解放区北平市 |
出身地: | 不詳[3] |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 蕭瑞臣 |
簡体字: | 萧瑞臣 |
拼音: | Xiāo Ruìchén |
ラテン字: | Hsiao Jui-ch'en |
和名表記: | しょう ずいしん |
発音転記: | シャオ ルイチェン |
事績
編集蕭瑞臣は元々、国民軍指揮官・岳維峻配下の営長だったとされ、その後、河南省安陽県に滞在するようになった。しかし、蕭の生活は困窮・退廃しており、日常的にアヘンを吸引していたという[4][5]。
日本軍が1937年(民国26年)11月3日に安陽県を占領すると、具体的な背景や理由は不明だが[6]、蕭瑞臣は同県で新民会を組織し、その領袖にまでなる。更に安陽県を改称した彰徳県の県長に就任した[7]。
同月27日、彰徳を省会(省都)として日本軍の傀儡地方政権である河南省自治政府が成立すると、蕭瑞臣は同政府主席に抜擢された[8][9]。1938年(民国27年)4月20日、河南省自治政府が中華民国臨時政府に吸収されて河南省政府公署に改められると、蕭はそのまま同省省長となった[10]。
翌1939年(民国28年)6月10日、蕭瑞臣は省長を辞任した(後任は豫北道尹の陳静斎)[11]。その後、河南黄河水災工振委員会委員長や中華民国新民会河南指導部長を務めた[12]。
後に北平(北京)へ転居したとされるが、日中戦争の末期になると蕭瑞臣の動向は不詳となっていた。しかし1949年、中国共産党が北平に入城した頃になると、蕭は精神失調により生活が非常に困窮している状況に陥っており、それからまもなく病没したとされる[13]。
注
編集- ^ 『満洲紳士録 第三版』(1940)、1624頁には「蕭瑞臣」の項目が存在し、人物写真も掲載されているが、この写真の人物は正しくは陳静斎である。また、記述されている蕭の経歴についても根拠薄弱なため信を置くのが難しく、しかも陳の経歴との混同が見受けられる状況にあることから、本記事の他の注釈でも逐次追記する。
- ^ 『満洲紳士録 第三版』(1940)、1624頁は「1885年(清光緒11年)6月」生まれと記載しているが、尾崎監修(1940)、170頁には記載が無い。なお陳静斎は1885年生まれである(甄(出版年不明)、87頁)。
- ^ 『満洲紳士録 第三版』(1940)、1624頁は「河南彰徳」生まれとしている。しかし甄(1991)、169頁では、蕭瑞臣は「南方人」であり地元人ではない、と記述していることから、誤りと思われる。尾崎監修(1940)、170頁も、蕭の出身地につき記載していない。一方、陳静斎は河南省彰徳府臨漳県(現在は河北省邯鄲市)出身である(甄(出版年不明)、87頁)。
- ^ 甄(1991)、169頁。
- ^ 『満洲紳士録 第三版』(1940)、1624頁や赤松(1938)、286頁においては、蕭瑞臣の経歴について呉佩孚配下(前者によれば直魯豫巡閲使署少将参議、後者によれば師長)、河南省の名望家(後者)、河南被服廠廠長・山東銅元局長・河南豫北道尹(いずれも前者)などと記述しているが、甄(1991)や尾崎監修(1940)は採用していない。一方の陳静斎は、呉との間に交友関係が存在しており、河南省内の大地主・大商人であった(甄(出版年不明)、87-89頁。路(1994)、97-98頁)。また、『満洲紳士録 第三版』の「蕭瑞臣」に書かれた経歴については、路(1994)、97-98頁に書かれた陳の経歴に関する記述と一致点が極めて多い(河南被服廠廠長・山東銅元局長・河南豫北道尹は、いずれも陳の前歴である)。ただし、陳は呉に直属する武官または文官ではないため、直魯豫巡閲使署少将参議や師長を務めたことは無い。
- ^ 蕭瑞臣は旧彰徳府出身ではなく、彰徳府外でも特段の声望や地位を持っていた人物ではない。赤松(1938)、286頁や当時の新聞報道によると、「呉佩孚配下の元・師長」と目されていたが、その経歴を裏付ける資料は見当たらない。
- ^ 甄(1991)、169-170頁。
- ^ 甄(1991)、173頁。
- ^ 「河南省自治政府成立」『同盟旬報』1巻16号、昭和12(1937)年11月下旬号、20頁。
- ^ 赤松(1939)、188頁。
- ^ 「世界政治外交日誌」『国際パンフレット通信』1202号、昭和14(1939)年6月号、141頁。
- ^ 尾崎監修(1940)、170頁。
- ^ 甄(1991)、173頁。
参考文献
編集- 甄石「偽彰徳県長蕭瑞臣軼事」中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会編『安陽文史資料 第6輯』中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会、1991年。
- 甄石「陳静斎是怎様当上偽豫北道尹的」中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会編『安陽文史資料 第2輯』中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会、出版年不明。
- 路慶雲「短命的靖安軍」「附1: 陳静斎簡況」中国人民政治協商会議河南省安陽市文峰区委員会文史資料委員会編『文峰文史資料 第4輯』中国人民政治協商会議河南省安陽市文峰区委員会文史資料委員会、1994年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『満洲紳士録 第三版』満蒙資料協会、1940年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第12巻』創元社、1940年。
- 赤松祐之『昭和十二年の国際情勢』日本国際協会、1938年。
- 赤松祐之『昭和十三年の国際情勢』日本国際協会、1939年。
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