蕭祗
経歴 編集
梁の南平元襄王蕭偉の子として生まれた。行儀作法が美しく、幼くして良い評判があった。天監年間、定襄県侯に封じられた[3]。東揚州刺史に任じられ、後に北兗州刺史に転じた。太清3年(549年)、侯景が建康を陥落させると、蕭祗は東魏に亡命した。鄴に到着すると、高澄は魏収と邢卲に命じて応接させた。蕭祗は太子少傅となり、平陽王の師を兼ね、清河郡公に封じられた。北斉の天保初年、右光禄大夫の位を受け、国子祭酒となった。梁の元帝が北斉との通好を求めたため、北斉の文宣帝は蕭祗らを南に帰そうとした。しかし西魏が江陵を陥落させたため、蕭祗らはそのまま鄴都にとどめられて、死去した。中書監・車騎大将軍・揚州刺史の位を追贈された[1][2]。
脚注 編集
伝記資料 編集
参考文献 編集
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 『南史』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00317-6。