蘇味道
略歴
編集若くから文名が高く、李嶠とともに「蘇李」とうたわれた。突厥族征討の軍に書記として参加し、才能を認められ、則天武后の聖暦の初め(698年頃)には宰相となった。しかし明確な政策を持たず、自ら宰相は決断してはならぬ、ただ模稜(ごまかし)していればよいのだと言ったため、模稜宰相と呼ばれたと言う。また親の墓を作ろうとして人民の墓地を壊したり、宰相らしからぬ行為が多かったため罷免され、武后の政権が倒れるとともに眉州刺史に流され、更に益州に遷される途中で死んだ。
親族
編集兄弟
編集- 蘇味玄(太子洗馬)
子女
編集- 蘇佃(膳部員外郎)
- 蘇份(蘇洵の先祖)
- 蘇倜(兗州刺史)
- 蘇倇(職方員外郎)