西谷 金蔵(金藏、にしたに きんぞう、1858年9月24日(安政5年8月18日[1][2][注釈 1])- 1933年昭和8年)12月15日[3][4])は、明治から昭和初期の大地主実業家政治家衆議院議員鳥取県東伯郡北谷村長。幼名・亀吉[5][6]。「西金」と称され鳥取県政界の指導的存在であった[7]

西谷金蔵

経歴

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伯耆国久米郡、のちの鳥取県[3]久米郡北谷村東伯郡北谷村[4][5][8][9]を経て現倉吉市)で、大地主[6]、庄屋[7]・西谷萬市の長男として生まれる[2][5][6]。1884年(明治17年)1月、家督を相続し金蔵に改名[2][6]。漢学を修めた[3][8]。農業を営む[2]

1879年(明治12年)三徳ほか21ヵ村戸長に就任[3][6][10]。北谷村長、北谷村会議員、同議長、東伯郡会議員、同議長、数郡連合会議員、郡会大地主議員、衛生会委員、学務委員、徴兵参事員、所得税調査委員、日本赤十字社委員などを務めた[3][4][6][8][10]。1885年(明治18年)鳥取県会議員に選出され4期在任した[3][5][8][9]。また、鳥取県農会長、鳥取県産業組合監事、同県勧学会評議員、同県山林会評議員、同県種繭審査委員、東伯郡蚕糸業組合委員なども務めた[3][8]

田江弥三郎の死去に伴い1895年(明治28年)6月に実施された第4回衆議院議員総選挙鳥取県第2区補欠選挙に出馬して初当選[6][7][10][11]。以後、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙まで第9回総選挙を除いて7回当選し、衆議院議員に通算8期在任した[3][4]。この間、鳥取県政友会支部幹事長などを務めた[8]

1907年(明治30年)7月、鳥取県農工銀行設立委員に就任[5]。また、県農工銀行取締役、共立商工銀行取締役、協立銀行取締役、山陰物産会社長、東洋生命保険社長、山陰製糸社長、倉吉電気社長、境電気社長、倉吉倉庫社長、伯州製紙社長、因伯時報社長、倉吉染織監査役、横浜生糸取引所監査役などを務めた[2][3][4][6][8][9][10]

国政選挙歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『衆議院議員列伝』83頁では8月15日。

出典

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  1. ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、20頁。
  2. ^ a b c d e 『人事興信録 第4版』に21頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』480頁。
  4. ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』341頁。
  5. ^ a b c d e 『衆議院議員列伝』83頁。
  6. ^ a b c d e f g h 『大日本人物誌』に之部29頁。
  7. ^ a b c 『鳥取県大百科事典』766頁。
  8. ^ a b c d e f g 『現代日本の政治家』政友会28-29頁。
  9. ^ a b c 『陰陽八郡郡勢一斑』東伯郡70頁。
  10. ^ a b c d 『新撰衆議院議員列伝』43頁。
  11. ^ 『官報』第3595号、明治28年6月25日。
  12. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』44頁。
  13. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』101頁。
  14. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』26-27頁。
  15. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』66-67頁。

参考文献

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  • 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
  • 田中重策編『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
  • 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
  • 﨏雨村編『陰陽八郡郡勢一斑』陰陽八郡時報社、1917年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。