規子内親王
規子内親王(きしないしんのう)は、村上天皇の第四皇女。母は斎宮女御徽子女王。名は「のりこ」とも読む[1]。無品。
規子内親王 | |
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時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 天暦3年(949年) |
薨去 | 寛和2年5月15日(986年6月24日) |
位階 | 無品 |
父母 | 父:村上天皇、母:徽子女王 |
兄弟 | 承子内親王、理子内親王、保子内親王、規子内親王、広平親王、冷泉天皇、致平親王、盛子内親王、為平親王、楽子内親王、輔子内親王、昭平親王、緝子内親王、資子内親王、昌平親王、円融天皇、選子内親王、具平親王、永平親王 |
斎宮 | 天延3年2月27日(975年4月11日)- 永観2年8月27日(984年9月24日) |
経歴
編集天暦3年(949年)に生まれる。康保元年(964年)2月23日、内裏において著裳。康保4年(967年)5月、父の村上天皇が崩御。天禄3年(972年)8月28日、源順を判者とする「女四宮歌合」を主催した。
天延3年(975年)2月27日、伊勢斎宮に卜定され、貞元元年(976年)9月21日野宮に入り、貞元2年(977年)9月16日、伊勢に群行した。この時に先例に反して母が伊勢に同行したことが、『源氏物語』賢木巻での六条御息所親子のもとになったと言われる。円融天皇の譲位をうけて、永観2年(984年)8月27日退下。翌寛和元年(985年)帰京するが母と程なく死別し、規子内親王も翌寛和2年(986年)5月15日に薨去した。38歳。
脚注
編集参考文献
編集- 芳賀登 他 監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1998年