豊見城親方盛良(とみぐすくうぇーかたせいりょう、1586年7月1日 - 1642年9月26日)は、琉球王国官僚。唐名は毛泰運を名乗った[1]

豊見城盛続の長男として生まれる。毛氏豊見城殿内と称する士族家系の6代目当主である [1]

1627年三司官に選出される[1] [2]1638年尚豊王薩摩藩主島津光久大名就任を祝うために、北谷朝秀と豊見城盛良を派遣した。翌年北谷は琉球に戻ったが、豊見城は公務のため薩摩に残った。1642年に琉球に戻る際、徳之島付近で難破したものの、 [1] [3]死体が見つからなかったため、豊見城には墓がなかった。 [4]

参考文献

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  1. ^ a b c d "Tomigusuku Seiryō." Okinawa konpakuto jiten (沖縄コンパクト事典, "Okinawa Compact Encyclopedia").
  2. ^ 中山王府相卿伝職年譜 向祐等著写本
  3. ^ Chūzan Seifu, appendix vol.1
  4. ^ http://syuri-sinkoukai.com/13daigaku.html