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琉球王国

かつて存在したアジアの国家
琉球国
琉球國/ルーチュークク
中山王国
北山王国
南山王国
1429年 - 1879年[1] 日本
琉球の位置
奄美群島を含む最大版図の頃の琉球王国
公用語 琉球語の内、主に沖縄方言
首都 首里[2]
国王→藩王
1421年[注 1] - 1439年 尚巴志王(初代)
1469年 - 1476年尚円王(第二尚氏初代)
1847年 - 1879年尚泰王(最後)
三司官(最後)
1872年 - 1879年浦添親方朝昭
1875年 - 1879年富川親方盛奎
1877年 - 1879年與那原親方良傑
面積
1571年 - 1609年[3]3,454km²
1609年以降[3]2,223km²
人口
1632年[4]108,958人
1729年[4]173,969人
1879年[5]286,787人
変遷
王国成立(三山の統一) 1429年
第二尚氏王統成立1469年
琉球藩設置1872年10月16日
琉球藩廃止・沖縄県設置1879年4月4日
現在日本の旗 日本
  • 1. ^ 琉球藩時代も含む。
  • 2. ^ 現在の那覇市首里に相当。
  • 3. ^ いずれも推定。1609年以降、奄美群島薩摩藩領になっている。
  • 4. ^ 薩摩藩による人口調査「宗門手札改」による。『図説琉球王国』(高良倉吉・田名真之 編、河出書房新社、1993年)参照。
  • 5. ^ 『沖縄門中事典』(宮里朝光 監修、那覇出版社、2001年)参照。

琉球王国(りゅうきゅうおうこく・琉球國:りゅうきゅうこく)は、1429年宣徳4年・正長2年、永享元年)から1879年光緒4年・明治12年)の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国

当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言: ルーチュークク)であり、「琉球王国」というネーミングは琉球政府唯一の公選行政主席、ならびに初代沖縄県知事であった屋良朝苗本土復帰運動観光誘致のために普及させた俗称である[1]。 

目次

概要編集

最盛期には奄美群島沖縄諸島及び先島諸島までを征服した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。

王家の紋章左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、沖縄方言:フィジャイグムン)」と呼ばれた。 世界中で見られる巴文様であるが、としての使用は日本文化圏[2]のみである。

勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、日本鎖国政策や隣接する大国海禁の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国[3]との深い結び付きが知られる。

琉球國は明及びその領土を継承した清の冊封下に組み込まれていたが、1609年万暦37年・慶長14年)に日本の薩摩藩の侵攻以後は、薩摩藩と清への両属という体制を取りながらも、独立した王国として存在し、日本や中国の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。

国号編集

現在は「琉球王国」という表記が一般的だが、琉球王朝が琉球王国を名乗ったことは一度もなく、琉球王国という呼称は本土復帰運動、および沖縄国際海洋博覧会開催時に多用された観光誘致用のニックネーム[1]であり、琉球國(りゅうきゅうこく、ルーチュークク)が正式な名称である。

※本頁では正式国名の「琉球國」で以下を統一するが、琉球藩から沖縄県への過渡的な律令国名である「琉球国(りゅうきゅうのくに)」との区別が必要である。

また、外交以外では自国を「おきなわ」と呼称していた形跡が多く存在するため、ここに併記する。

琉球 編集

「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求」が初出である。同書によると、「607年大業3年・推古天皇15年)、煬帝が「流求國」に遣使するが、言語が通ぜず1名を拉致して戻った。翌608年(大業4年・推古天皇16年)再び遣使し慰撫するも流求は従わず『布甲(甲冑の一種)』を奪い戻る。この時、遣隋使として長安に滞在していた小野妹子らがその『布甲』を見て『此夷邪久國人所用也(此れはイヤク国の人が用いるものなり)』と言った。帝は遂に陳稜に命じ兵を発し流求に至らしめ、言語の通じる崑崙人に慰諭させるも、なお従わず逆らったため之を攻め、宮室を焼き払い男女数千名を捕虜として戻った。」と記されている。同書は流求國の習俗を子細に記すが、その比定先として挙げられる台湾や周囲の先島諸島、沖縄諸島やルソン島などは、この時点ではいわゆる先史時代に当たり同定は難しい。なお、「夷邪久(イヤク)」は屋久島を指すとする説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指すとする説とがある。

隋書より後には、「流鬼」(『新唐書』)、「瑠求」(『元書』)などと様々に表記されるが、いずれも「流求(溺れ助けを求む)」、「流鬼(溺れる鬼)」、「留仇(敵のいる所)」などと言った中華思想に基づく蔑称である。「琉球」に落ち着いたのは代以降であり[4]、最も使用の多かった「流求」に冊封国の証として王偏を加えて「琉球」とされ、14世紀後半、本島に興った山北・中山・山南の3国に対して明が命名したものである。その後15世紀初期に統一国家となった以降は自国の外交用の国号として「琉球國」を用いた。

なお、鎌倉時代にあたる1305年大徳9年・嘉元3年)の称名寺所蔵行基図14世紀半ば作と見られる『日本扶桑国之図』には南島の領域として「龍及國」と記されており、これは三山の冊封貿易開始よりも前であり、明に琉球と命名される以前から外交的に「りゅうきゅう」を自称していた可能性が示唆されている[5]

おきなわ編集

一方で、「琉球」は隋が一方的に命名した蔑称であり、内政的には古くから自国を「おきなわ(歴史的仮名遣:お(う)きなは)」に近い音で呼称していたとする研究もある[6]

「おきなわ」の呼称は、淡海三船が記した鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(779年宝亀10年)の中で、鑑真らが島民にここは何処かとの問いに「阿児奈波」と答えたのが初出であり、少なくとも鑑真らが到着した753年天平勝宝5年)には住民らが自国を「おきなわ」と呼んでいたことが分かる。また「おもろさうし」には平仮名の「おきなわ」という名の高級神女名が確認され、現在も那覇市安里に「浮縄御嶽(ウチナーウタキ)別名:オキナワノ嶽」という御嶽が現存し、県名の由来とされている[7]

その他にも国内外の史料に「浮縄(うきなわ)」、「悪鬼納(あきなわ)」、「倭急拿(うちなー)」、「屋其惹(うちな)」といった表記が散見される。なお、現在の「沖縄」という漢字表記はいわゆる当て字であり、新井白石の『南島誌』(1719年享保4年)が初出で、長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。

この「沖縄」が琉球処分後の県名に採用され、今日では一般化している[8]

また、第二次世界大戦直後に名護市出身の共産党最高幹部徳田球一が「沖縄民族は少数民族であり、歴史的に搾取、収奪された民族である。」との主張を行い、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは「沖縄人は日本人ではない[9]」と断じて日沖分断作戦に利用し、琉球列島米国軍政府(のちに琉球列島米国民政府[琉球政府の上部組織])として「琉球」の名称を再利用させた。

「琉球」が指す範囲の変遷編集

『隋書』における「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としている。隋書に続く時代の『北史』、『通典』、『諸蕃志』においては『隋書』の記述を踏襲し、『太平寰宇記』(代の地理書)においても内容に大差はなかった。代に完成した『文献通考』においては、「琉球」は台湾沖縄県周辺を混同して指す記述となっている。

その後13世紀まで、北から奄美群島沖縄諸島先島諸島台湾のいずれの地域も小勢力の割拠状態が続き、日本国の役所が置かれた奄美群島(喜界島)以外は、中国大陸日本列島の中央政権からの認識が薄い状態であった。14世紀、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が初めて明の皇帝に朝貢し、冊封に下ったことで認識が高まり、沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。その後、「琉球」は琉球國の勢力圏を指す地域名称として定着していく。

近代に入って「琉球(流求)」の語が指す地理的領域の考察が進んだ。1874年(明治6年)にサン・デニーが『文献通考』の一部を翻訳し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表した。1895年(明治28年)にはグスタフ・シュレーゲルが、以前の「琉球」は台湾のことを指し、以降は沖縄県周辺のことを指すようになったとする説を発表した。1897年(明治30年)、ルートヴィヒ・リース(当時、帝国大学文科大学(現東京大学)史学科の教授)は著書『台湾島史』(吉国藤吉訳、1898年)において、「流求」は台湾を指すとした。

民族編集

琉球民族」および「日琉同祖論」も参照

琉球國の正史中山世鑑』や『おもろさうし』などでは、12世紀源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖・舜天になったとされる。真偽は不明だが、第二尚氏2代王の尚真1522年嘉靖元年・大永2年)に建立した「石門之東之碑文」に漢文で「尊敦(舜天の神号)から20代目の王」[10]と彫らせ、続く3代王の尚清1543年(嘉靖22年・天文12年)に建立させた「かたのはなの碑」の表碑文に和文で「大りうきう國中山王尚清ハそんとんよりこのかた二十一代の王の御くらひをつきめしよわちへ」と彫らせ、裏碑文に同様の内容を漢文で彫らせている[11]。これらから少なくとも琉球王統日本人であることを王の正当性と認識していたと考えられ、舜天の始祖説は琉球の正史として扱われている。これら話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産み、さらに日琉同祖論へとつながったとも言える。16世紀前半には「鶴翁字銘井序」等に起源が見られた日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、1922年大正11年)には「為朝上陸の碑」が建てられ、表碑文に「上陸の碑」と刻まれ、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。

また天孫氏を自称した初代中山王察度1368年洪武元年・貞治7年)に真言宗の勅願寺(後に護国寺)の創建と熊野信仰波上宮の創建を行っており、日本への帰属意識が高かった傍証となっている。

『中山世鑑』を編纂した羽地王子朝秀は、摂政就任後の1673年康熙12年・延宝元年)3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[12]。沖縄学の研究者の伊波普猷は、琉球の古語や方言に、中国文化の影響が見られない7世紀以前の日本語の面影が多く残っているため、中国文化の流入以前に移住したと見ている[13]

札幌大学教授の高宮広士が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であるため、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘する[14]ように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であるとされている。遺伝子研究では、琉球列島(沖縄諸島宮古列島八重山列島)の集団は、遺伝的に中国本土台湾の集団との直接的なつながりはなく、本土と同一の父系を持つという研究結果や[15][16][17]、2018年の核DNA分析からもアイヌの集団よりも日本本土に遺伝的に近いという研究結果が発表されている[18][19]

16世紀の琉球人編集

16世紀頃の琉球人を知る手がかりとしてよく知られているのは、ポルトガル人旅行家のトメ・ピレスが1515年正徳10年・永正12年)に記したとされる「東方諸国記」の第四部「シナからボルネオに至る諸国」にある、「レケオス(Lequeos)は元々ゴーレス(Guores)であり、正直かつ勇猛で交易相手として信頼に足る。彼らは明に渡航してマラッカに来た品々を持ち帰る。そしてジャンポン(Jampon)に赴いて金や銅と交換するという。また、彼らは偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と記した[20]。 しかし、現在まで続く沖縄の土着信仰は無形のアニミズム祖霊崇拝おなり神信仰であり、当時すでに首里近郊には仏教寺院が多くあったため、明の滞在歴のあるピレスがそれらを指して「偶像崇拝者」と捉えるのは不自然であるとし、レケオスは琉球ではないとの指摘もある。

また、ピレスと同時期にマラッカの植民地征服に成功したポルトガル人総督のアフォンソ・デ・アルブケルケの叙述伝である「アルブケルケ実録(アルブケルケ伝)」には「ゴーレス(Gores)の本国はレキオス(Lequios)である、彼らは色白で正直であり、長衣をまとい、腰に細身の長剣と42cm程度の短剣を常に佩用していて、マラッカでは彼らの勇猛さは恐れられている。また彼らは交易が終わればすぐに出発し、マラッカに留まることを好まない。」[21]と記されており、長衣に大小の打刀を佩用する琉球人は室町武士と同様の出で立ちであり、日本文化圏に帰属する傍証だとする研究者や、ゴーレスはレキオス(琉球)交易船に乗り込んでいた本土日本人であるとする研究者もいる。いずれの内容も琉球が東アジアにおいて、中継貿易に長けていたということに変わりはない。なお日宋貿易時代からの貿易海商や船長の事を「綱首(和読:ごうしゅ)」と言う。

一方で、薩摩の侵攻の直接の原因となった三司官謝名利山や羽地王子朝秀を引き継いだ蔡温は、1392年洪武25年・明徳3年)に洪武帝より下賜されて琉球に入籍した閩人(福建人ならびに福建省客家)である久米三十六姓の末裔であり、琉球王朝の高官や学者、政治家を多く輩出している。その多くは久米士族として琉球人と同化していった。

歴史編集

 
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島 先島諸島
旧石器時代 先島先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山


第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

琉球藩
沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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三山統一編集

1429年宣徳4年・永享元年)、第一尚氏王統尚巴志王の三山統一によって琉球國が成立したと見なされている。

第一尚氏は大和(日本本土)や中国(明)・朝鮮半島(李朝)はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大した。第一尚氏王統、第6代の尚泰久王は、万国津梁の鐘を鋳造せしめ、海洋国家としての繁栄を謳歌した。

しかし、一方で第一尚氏の権力基盤は不安定であった。統一後も依然として地方の諸按司や豪族の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施することはなかった。尚泰久自身、王位継承権争い(志魯・布里の乱)の両者が滅んだため即位したのであり、その治世の間にも阿麻和利護佐丸の乱が起き、これを平定している。これは当時の琉球豪族の力が非常に強かったことを示している。後継の尚徳王は喜界島親征といった無謀ともいえる膨張政策を取ったため、政権としては63年間で瓦解した。尚泰久が抜擢した重臣・金丸(尚円王)のクーデタによるものである。

第二尚氏王統編集

1469年成化5年・文明元年)、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)が、尚徳王薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、尚徳王の世子は殺害されており、クーデターによる即位であったと考えられている。

その後、第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功した。彼の治世において、対外的には1500年弘治13年・明応9年)には石垣島に侵攻してオヤケアカハチの乱(八重山征服戦争)を武力制圧し、さらに1522年嘉靖元年・大永2年)には与那国島に侵攻して鬼虎の乱(与那国島征服戦争)を鎮圧、現代まで続く先島諸島の統治権を確立した。1571年隆慶5年・元亀2年)には奄美群島北部まで征服し、最大版図を築いた。

琉球王は、明国に対しては冊封国として、中国皇帝の臣下となることを強いられたが、一方で、国内では、時に琉球王を天子皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せた可能性がある[22]。その例として、『朝鮮王朝実録』には、1545年嘉靖24年・天文14年)に朝鮮からの琉球への漂着民が残した証言として、「王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」(朝鮮明宗実録)という記述がある。

薩摩による琉球侵攻編集

16世紀後半、豊臣秀吉とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球國に助勢を命じたが、明の冊封国であったため尚寧王は一旦拒否した。しかし、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球國は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。

1609年万暦37年・慶長14年)、前年の謝名利山の無礼や謝恩使要求の不履行などを口実に、薩摩藩島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日に当時は琉球國の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。

これ以降、琉球國は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明に代わって中国大陸を統治するようになった満州族王朝であるの冊封下でもあり続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球國は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球が征服してから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離されたが、表面上は琉球國の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。

黒船来航編集

1853年咸豊2年・嘉永5年)5月に黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍マシュー・ペリー提督首里城に入って開港を求めた[23]。黒船は翌1854年咸豊3年、嘉永6年)にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。

翌年の1855年咸豊5年・安政2年)11月には琉仏修好条約が、1859年咸豊9年・安政6年6月7日)7月には琉蘭修好条約が締結された。

琉球処分編集

1871年同治9年・明治3年)、明治政府廃藩置県によって琉球國の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年同治10年・明治4年)には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に陞列して侯爵とした[24]。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、尚泰侯爵は従わなかった。そのため1879年光緒4年・明治12年)3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉し、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ[25]、沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった。地位を失った琉球の王族は日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展したが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は頓挫、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。

政治編集

王府行政機構図編集

王府行政機構図
宝座 国王
評定所 御座 摂政
三司官
下御座 表十五人
中央政庁 物奉行所 申口方
用意方物奉行所 給地方物奉行所 所帯方物奉行所 平等方 泊地頭 双紙庫理 鎖之側
物奉行* 物奉行* 物奉行* 平等之側* 泊地頭* 双紙庫理* 鎖之側*
吟味役* 吟味役* 吟味役* 吟味役* 吟味役* 吟味役* 日帳主取* 日帳主取*
役座
(役所)
  • 山奉行所
  • 砂糖蔵
  • 用意蔵
  • 大台所
  • 料理座
  • 催促方
  • 船手蔵
  • 高所
  • 勘定座
  • 用物座
  • 給地座
  • 救助蔵
  • 道具当
  • 田地方
  • 取納座
  • 座検者方
  • 諸製方
  • 米蔵
  • 仕上世座
  • 宮古蔵
  • 銭蔵
  • 賦方
  • 蘇鉄方
  • 紙座
  • 櫨垂方
  • 請地方
  • 玉陵殿
  • 寺社座
  • 大与座
  • 総横目
  • 泊村方
  • 普請奉行所
  • 鍛冶奉行所
  • 亙奉行所
  • 総与力
  • 下庫理
  • 書院
  • 納殿
  • 小細工奉行所
  • 貝摺奉行所
  • 厩方
  • 御系図座
  • 久米村方
  • 那覇里主所
  • 国学
  • 久米村明倫堂
  • 首里三平等学校所
  • 那覇四町学校所
  • 泊村学校所
  • 首里各村学校所
  • 諸浦在番
青字*:表十五人

王府行政機構編集

 
琉球國の行政の中心・首里城世界遺産

評定所編集

評定所は国政を司る王府最高機関である。摂政および三司官が執務する場所は御座もしくは上御座と呼ばれ、表十五人が控える場所は下御座と呼ばれた。

摂政
摂政(シッシー)は日本の摂政職に近いが、ほぼ常設の官職である。国王を補佐し、三司官に助言を与える役目だが、辣腕をふるった羽地王子朝秀などを例外にすれば、通常は儀礼的な閑職であった。王子や按司など、王族から選ばれた。
例外は薩摩の侵攻直後に就任した僧菊隠で、これは薩摩との交渉役を期待されたためである。漢訳で国相と言った。
三司官
三司官(さんしかん)は実質的な行政の最高責任者であり、宰相に相当する。三人制で投票により親方の中から選ばれた。選挙権を持つ者は王族、上級士族ら200余名であった。王族には選挙権はあるが、被選挙権は無かった。
職掌は、用地方、給地方、所帯方に分かれ、3人がそれぞれを分担した。三司官の品位は正一品から従二品で、士族が昇進できる最高の位階であった。漢訳で法司と言った。
表十五人
表十五人(おもてじゅうごにん)は、摂政・三司官の下に位置する、物奉行3人、その下の次官級の吟味役3人、申口方の長官4人、その下の次官級の吟味役3人・日帳主取2人を合わせた計15名からなる協議機関である。国政の重要課題を協議し、摂政・三司官に上申するなどした。十五人衆、奉行衆とも言う。現在の国務大臣に相当する。
尚賢王の治世の1643年崇徳8年・寛永20年)に置かれたが、表十五人は正式な官職名というよりは通称であり、普段はそれぞれの役所の長官および次官として働き、必要があれば集まって協議した。それゆえ、評定所の常設官職には含まれない[26]

物奉行所編集

物奉行所は用意方、給地方、所帯方の3つの物奉行所からなり、それぞれに物奉行が一人いた。各物奉行は、同じく各物奉行所を担当するそれぞれの三司官の監督のもとで職務を行った。物奉行は今日の大臣・長官に相当し、その下に次官級の吟味役が置かれた。主に物奉行は親方(従二品)が、吟味役は親雲上(ペークミー・正四品)がその任に就いた。

用意方物奉行所
用意方(よういほう)は国有財産の管理・山川保全などを職掌とする官庁である。山奉行所、砂糖蔵、用意蔵、大台所、料理座、催促方の各役所を管轄した。
給地方物奉行所
給地方(きゅうちほう)は役人の給与・旅費などを職掌とする官庁である。船手蔵、高所、勘定座、用物座、給地座、救助蔵、道具当の各役所を管轄した。
所帯方物奉行所
所帯方(しょたいほう)は租税・国庫の出納などを職掌とする官庁である。田地方、取納座、座検者方、諸製方、米蔵、仕上世座、宮古蔵、銭蔵、賦方、蘇鉄方、紙座、櫨垂方、請地方の各役所を管轄した。

申口方編集

申口方(もうしぐちほう)は平等方、泊地頭、双紙庫理、鎖之側の四官庁からなる。平等方を除いて、それぞれ官庁名であると同時にその長官名を指した。各長官の下には次官級の吟味役か日帳主取が置かれた。申口方の長官は親雲上(正三品)が、その下の次官級は親雲上(正四品)がその任に就いた。従って、申口方の長官は物奉行よりも品位が下に位置する。長官は漢訳で耳目官と言った。

平等方
平等方(ひらほう)は司法(裁判所・警察署)と首里の土地山林を職掌とする官庁である。平等所とも言う。長官名は平等の側(ひらのそば)と言った。他に王家陵墓・玉陵の警備なども管轄した。
泊地頭
泊地頭(とまりじとう)は戸籍、民事、公安、消防、宗教、建設および琉球第二の貿易港のある泊村を職掌とする官庁およびその長官名である。寺社座、大与座、総横目、泊村方、普請奉行所、鍛冶奉行所、亙奉行所、総与力の各役所を管轄した。
元は北山王国の領域(国頭、与論、沖永良部)、のち奄美群島全域を統括した「自奥渡上之捌理(おくとよりうえのさばくり)職」(奥渡より上の捌理)と言う役職である。
双紙庫理
双紙庫理(そうしこり)は知行、褒賞、工芸や宮中のことを職掌とする官庁およびその長官名である。下庫理、書院、納殿、小細工奉行所、貝摺奉行所、厩方の各役所を管轄した。
鎖之側
鎖之側(さすのそば)は外交、文教などを職掌とする官庁およびその長官名である。御系図座、久米村方、那覇里主所、国学、久米村明倫堂、首里三平等学校所、那覇四町学校所、泊村学校所、首里各村学校所、、諸浦在番の各役所を管轄した。

文化編集

琉球國は、律令制を参考にした政治や、士族は和風の実名の他に中国風の名前も持つなど、最大の交易相手だった中国の影響を強く受けた。一方で書き言葉は主に漢字かな交りの和文を用い、寺院神社を建立するなど日本文化への帰属意識もあり、羽地王子朝秀による改革により王朝の支配に武家政権の要素が取り入れられた。琉球は、日中双方の文化や制度を受け入れつつ、独自の文化を育んでいた。

文学編集

おもろさうし編集

尚清王から尚豊王の治世にかけての1531年嘉靖10年・享禄4年)から1623年天啓3年・元和9年)の間に、琉球最古の歌謡集『おもろさうし』が編纂された。古来から伝わる歌謡(おもろ)を平仮名を主とする日本語で著わした歌謡集であり、おもろ1554首が収録されている。

琉歌編集

17世紀になると、短詩型の叙情歌謡である琉歌が盛んになった。琉歌には様々な形式があるが、一般的には平仮名読みの8・8・8・6の30音からなる形がよく知られている。琉歌の名人には惣慶忠義1686年 - 1749年)、平敷屋朝敏(1700年 - 1747年)、玉城親方朝薫1684年 - 1734年)、与那原親方良矩1718年 - 1797年)、本部按司朝救1741年 - 1814年)、東風平親方朝衛(1701年 - 1766年)等が古来より有名である。これらの歌人は、和歌・和文にも精通していた。女流歌人では、吉屋チルー1650年 - 1668年)と恩納なべ尚穆王時代)が双璧としてよく知られている。

和歌編集

琉球における和歌の起源は史料が乏しいため判然としない。1585年万暦13年・天正13年)、安谷屋親雲上宗春が豊臣秀吉と大坂で謁見した際、天王寺で開催された歌会に参加した記録があり、この頃にはすでに和歌が詠まれていたのではないかという説もある。一般には、識名親方盛命(1651年 - 1715年)が琉球における和歌の祖と言われている。元禄以前の和歌の名人には、他に屋良親雲上宣易(1658年 - 1729年)、池城親方安倚(1669年 - 1710年)、安仁屋親雲上賢孫(1676年 - 1743年)、石嶺親雲上真忍(1678年 - 1727年)、国頭親方朝斉(1686年 - 1747年)、惣慶忠義らが著名である。

元禄以降、和歌が盛んになり多数の名人を輩出するようになった。平敷屋朝敏、栢堂和尚(1653年 - ?)、東風平親方朝衛、本部按司朝救、読谷山王子朝憲(1745年 - 1811年)、宜野湾王子朝祥1765年 - 1827年)、浦添按司朝英(1762年 - 1789年)、世名城親雲上盛郁(1774年 - 1833年) 、大工廻親雲上安詳(1791年 - 1851年)、義村按司朝顕(1805年 - 1836年)らが著名である[27]。また、宜湾朝保が和歌集『沖縄集』(1870年)に載せた36人の歌人が沖縄三十六歌仙としてつとに有名である。

漢詩編集

漢詩は、『喜安日記』(尚豊王時代)に菊隠(? - 1620年)らの漢詩がいくつか収められているように、当初は僧侶達によって作詩された。漢詩集では、程順則が編纂した『中山詩文集』(1725年)が琉球初である。個人の漢詩集としては、蔡鐸『観光堂遊草』、程順則『雪堂燕遊草』、程搏万『焚余稿』、周新命『翠雲楼詩箋』等がある。

絵画編集

 
城間清豊筆『白澤之図』

文献で確認できる琉球國最初の画家は、17世紀前半の城間清豊(自了、代表作に「白澤之図」)である。18世紀に入ると尚敬王の保護により画壇が栄え、中国より朱肉の製法を伝えた山口宗季(呉師虔)、琉球の代表的絵師といわれる殷元良(座間味庸昌、代表作に「神猫図」「雪中雉子の図」)や、国王の肖像御後絵を多く制作した向元瑚(小橋川朝庵)などが輩出した[28]

琉球舞踊編集

琉球舞踊は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「御冠船踊り」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の琉舞と区別する意味で、古典舞踊とも言う。古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。

廃藩置県によって琉球国が消滅し、士族階層が没落すると、古典舞踊を元にして雑踊りと呼ばれる民間舞踊が誕生した。昭和以降には、現代感覚を導入した創作舞踊というジャンルも出現し、これも琉球舞踊に含まれる。

音楽編集

 
御座楽の演奏風景

宮廷音楽として、室内楽の御座楽(うざがく)や、屋外楽の路次楽などがあった。

工芸編集

染織の技法である紅型漆器には琉球漆器陶磁器には壺屋焼などがある。

陶芸編集

琉球國における陶芸は、南方貿易が盛んであった頃、泡盛の容器として輸入された南蛮甕の製法に学んだことに始まる。ここから古我地焼知花焼が生まれる。1617年万暦45年・元和3年)には薩摩藩から朝鮮の陶工、張献功ら三人が招かれ本格的な技術が伝わる。1670年康熙9年・寛文10年)には平田典通に渡り、釉薬の技術を伝える。また、18世紀には仲村渠致元八重山に陶器製法を伝え、また薩摩藩で技術を習得し白焼陶器を広めた。1682年康熙21年・天和2年)、古我知、知花、湧田の3箇所の窯が壺屋に統合された。[29]

武芸編集

琉球國の詳しい武術については「手 (沖縄武術)」、「空手道」、「琉球古武術」を参照

沖縄固有の沖縄手、中国武術から発展したといわれる唐手などの手(ティー)という武術があった。

馬術編集

速さではなく美しさを競う琉球競馬が行われていた。17世紀には王室直轄の競馬場も設けられた。また、組踊の中にも、競馬の登場する作品がある[30]

食文化編集

琉球料理 王族や上級士族が居住した首里では洗練された宮廷料理が作られた。その料理の味わいの表現の一つとして「あふぁい(淡い)」というものがある。一般的には「薄味」と捉えられているようだが「感謝の念から、素材そのものの味を味わい尽くす」ために余計な「味付け」をしない状態であると考えられる。

王族・上級士族は別として、無禄の士族を含む平民は重税によって苦しい生活を強いられた。貴重な動物性タンパクである「」は一般庶民の家で飼われてはいたものの、日常的な食事に供されるものではなく、比較的裕福な家庭でさえ盆や正月といった行事の時にしか口にすることはできない貴重な食べ物だった。そういった時代背景によって庶民が生きるために、ありとあらゆるものを食べるために工夫することを余儀なくされ「豚はひづめと鳴き声以外全て食べる」と形容されるようなところにまで行き着き、ひもじさを緩和するための味付けとして「味くーたー」という濃い塩味が庶民の間で流行した。

経済編集

 
中国への進貢船

琉球はに冊封されることで、倭寇の取締りを尻目に、海禁政策を行っていた中国とアジア諸国の間での東シナ海中継貿易の中心の1つを担うようになり、経済基盤をつくり上げた。貿易範囲は日本の他、主に中国朝鮮ベトナムタイなど東南アジア諸国であった。

しかし16世紀に入り、1567年隆慶元年・永禄10年)、明が倭寇対策として海禁の緩和(中国人とアジア諸国との直接交易を認める。ただし日本のみ除外。)を行ったことで大打撃を受ける。大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国が東南アジアに貿易拠点を築き東シナ海にも進出すると、ポルトガルマラッカを抑えることで東南アジアの市場を失い、日本との中継貿易もマカオのポルトガル人が手がけるようになるなど、ヨーロッパ人が東アジア諸国と直接貿易をするようになった。更に戦国時代に戦費調達のため鉱山開発が進んだ日本が、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて、豊富なを持って東南アジア領域に進出し、多数の日本人町を形成するほど貿易の中心となり、琉球の中継貿易は衰退した。ただし、明が朱印船を受け入れなかったため、琉球の対明中継貿易の地位は残り、命脈を保った。

その後、東アジア諸国の鎖国政策によって国際貿易は縮小するが、薩摩藩の付庸国となることで日本との冊封貿易によって中国との貿易ルートを得た琉球が安定した中継貿易の地位を確立した。

19世紀に入ると、アヘン戦争に敗北したが海禁政策を弱め、日本も開国してヨーロッパと直接貿易を再開した。これにより、香港日本の開港5港などに貿易の中心は移り、琉球の東シナ海での中継貿易の地位はほぼ失われてしまう。結果、中継貿易を支えた琉球の日清両属体制は意義を失い、琉球処分で経済的にも政治的にも日本に完全に組み込まれた。

また琉球王朝は一般民衆による土地の私有を認めず、農業生産性の低い土地であったにもかかわらず極めて高い年貢を課したため、民衆は貧しい生活を強いられていた。

軍事編集

琉球國には「首里親軍(しおりおやいくさ)」と呼ばれる軍事組織が存在しており、首里・那覇の防衛および対外地域への征服活動を行っていた。「琉球王国軍」「琉球軍」と表現されることもある。兵力は数千人規模と想定されており、1500年弘治13年・明応9年)には八重山征服戦争を、1522年嘉靖元年・大永2年)には与那国島征服戦争を、1571年隆慶5年・元亀2年)には奄美群島全域征服を行い、1609年万暦37年・慶長14年)の薩摩島津軍の琉球侵攻では琉球國の国土防衛を担った。なお、首里親軍の名称は古琉球の歌謡集『おもろさうし』(上述)に登場する。

言語編集

話言葉は、琉球方言(日本語、候文の口語体に近い琉球語とも言う)が用いられた。文字は、15世紀以前の古文書や石碑の碑文では、漢字ひらがな交じりの和文が用いられている。17世紀以降になると、首里王府内の公文書(評定所文書)や薩摩など日本との外交文書では和文候文)が、家譜や明・清との外交文書では漢文が主に用いられた。琉歌組踊などの文学作品では和文と琉球方言(琉球語)が主に使用された。

宗教編集

 
波上宮の拝殿
 
円覚寺跡

琉球神道編集

古来より琉球にはアニミズム祖霊崇拝おなり神信仰を基礎とする固有の宗教があり、首里には聞得大君御殿(きこえおおきみうどぅん)、首里殿内(しゅりどぅんち)、真壁殿内(まかべどぅんち)、儀保殿内(ぎぼどぅんち)の一本社三末社があった。聞得大君御殿は首里汀志良次町にあり、琉球各地にある祝女殿内(ぬんどぅんち)と呼ばれる末社を支配した。

聞得大君(キコエオオキミ)は琉球國の高級神女三十三君の頂点に君臨する最高神女で、その地位は国王の次に位置し、前・元王妃など王族女性から選ばれて任に就いた。聞得大君は御殿の神体である「御スジノ御前」、「御火鉢ノ御前」、「金之美御スジノ御前」に仕え、国家安泰、海路安全、五穀豊穣などを祈願した。

神道編集

尚金福王が、それまで島だった那覇と首里を結ぶ「長虹堤」の建設を初めるも幾度となく頓挫、1451年景泰2年・宝徳3年)に天照大神を日本本土から招き、祈願したところ完成したため、那覇若狭町に天照大神を祀った長寿宮(後の浮島神社、1988年に波上宮内仮宮に遷座)[31]を創建したのが、史書で確認できる最初の神社建立であるが、沖縄本島には波上宮(勅願寺と共に1368年創建が有力[32])、沖宮識名宮普天間宮末吉宮安里八幡宮天久宮金武宮の八社(琉球八社)がある。このうち、七社が熊野権現を、一社は八幡大神を祀っている。琉球国一の宮は波上宮である。

仏教編集

13世紀英祖の治世に臨済宗の僧侶・禅鑑が那覇に漂着し、王が禅鑑を尊信して浦添城の西に極楽寺(後の龍福寺、現在は廃寺[33]を建立して禅鑑を開基としたのが、琉球に仏教が伝来した始まりと言われている。 その後、察度によって1368年応安元年)に日本の頼重法印が来琉して勅願寺(現在の護国寺[32]を開き、真言宗を伝えた。

第一尚氏王統の尚泰久王の治世には京都から高僧・芥隠承琥が渡来した。 芥隠は琉球における臨済宗の祖とも言うべき人物で、尚真王1492年明応元年)に円覚寺を創建するにあたって、芥隠を開基とした。円覚寺は琉球王家の庇護厚く、沖縄戦で焼失するまで琉球第一の巨刹として繁栄した。歴代国王の御後絵(肖像画)はすべて円覚寺に安置されていた。円覚寺、天王寺[34]、天界寺[35]を合わせて那覇三大寺といった。他に那覇の崇元寺も昔から有名である。

泰久王はまた、多くの梵鐘を鋳造させたが、中でも首里城正殿に掛けられていた万国津梁の鐘は有名である。「舟楫(しゅうしゅう)をもって 万国の津梁(しんりょう)となし 」という銘文には、海洋国家としての気概が示されているが、銘文の後半では仏教の興隆を謳っている。

また、1603年慶長8年)にはへの渡航を志した日本の僧侶、袋中が琉球に渡り浄土宗を伝えた。滞在期間は3年であったが尚寧王の帰依を受けている。エイサーは袋中が伝えた念仏踊り[36]が元である。また、帰国後「琉球神道記」も著している。

薩摩藩は藩内で浄土真宗を禁圧していたが、これは琉球にも適用される。1636年寛永13年)以来宗門改めが実施されるが、一向宗はまだ渡来していなかった模様である。それでも19世紀になると一向宗の摘発が行われるようになり、1853年嘉永6年)には先祖が薩摩からやってきた官吏、仲尾次正隆とその信徒が摘発されている。[37]

道教編集

琉球に道教が伝来した正確な時期を示す文献はないが、1719年康熙58年・享保4年)に来琉した冊封使・徐葆光の『中山伝信録』の中に、道教の竈祭(かまどの神を祝う祭)が行われていたとの記述があることから、18世紀初頭には道教が信仰されていた事実を確認できる。その後、道教は琉球土着のヒヌカン信仰と融合して、女性の間で広く信仰された。

キリスト教編集

キリスト教の伝来は、尚豊王の治世の1622年天啓2年・元和8年)、八重山に南蛮船が渡航して布教を行ったのが始まりである。日本ではキリスト教はすでに禁止されていたが、ジャワやルソンから往来する南蛮船が琉球諸島にたびたび寄港していた関係から、布教活動が行われた。しかし、この頃から琉球でもキリスト教は公には禁止されており、また薩摩藩からも度々禁令が発せられて琉球側に伝達されていたので、キリシタンは摘発されると罰せられた。

琉球における最も大きなキリシタン禁圧は八重山キリシタン事件である。すでに琉球が薩摩の附庸下に入っていた1624年天啓4年・元和10年)、スペイン船が石垣島に漂着した。この船にはドミニコ会神父ルエダが載っていた。石垣島宮良間切の元頭職石垣永将は彼らをもてなすとともに、「稽古事」(キリスト教を学ぶこと)を行っていたとして琉球王府に流罪とされ、さらに1634年崇禎7年・寛永11年)には薩摩藩が石垣の処刑を求め、翌年、火あぶりの刑に処された。ルエダ神父も殺害された。これ以後、琉球でも禁教策が強化され、1636年崇禎9年・寛永13年)、薩摩藩は琉球に宗門改の実施を求めた。[38]

ちなみに沖縄の一部地域には、薩摩藩による宗門改めに由来する伝統行事が残っているところもある[39]

1844年道光24年・天保15年)にフランスの宣教師が、1846年道光26年・弘化3年)にはイギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムなどが来琉して、それぞれの軍隊の力を背景として布教活動を許可するよう王府に圧力を掛けた。王府は対応に苦慮しながらも護国寺などへの居住を許可したが、布教活動には様々な制限を加えることで対抗した。ベッテルハイムは滞在中琉球方言を修得し、新約聖書福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成、後に香港で出版した。

身分制度編集

琉球國の身分構成
身分 戸数 割合

殿
王子 2戸[1] 0.002%
按司 26戸[1] 0.032%
殿
親方
(総地頭)
38戸[1] 0.047%
脇地頭親方
親雲上
296戸[1] 0.367%
一般士族
(里之子・筑登之親雲上)
20,759戸[2] 25.79%
平民 59,326戸[2] 73.71%
1. ^ 『琉球藩臣家禄記』(1873年)
2. ^ 『沖縄県統計概表』(1880年)
琉球國の詳しい身分制度については「琉球の位階」を参照

琉球國の身分制度は、御主加那志前(ウシュガナシメー)と呼ばれた国王を頂点に御殿(ウドゥン)と呼ばれた王子、按司などの王族、殿内(トゥンチ)と呼ばれた親方、親雲上(ペークミー)などの上級士族、親雲上(ペーチン)と呼ばれた一般士族、百姓(ヒャクショウ)と呼ばれた平民からなる。

王子、按司は一間切を采地(領地)として与えられ、一括して按司地頭と呼ばれた。親方は一間切を領する総地頭、間切内の一村を領する脇地頭に分かれる。親雲上(ペークミー)とは、一村を領する脇地頭職にある親雲上(ペーチン)のことであり、発音で両者は区別された。親雲上(ペーチン)は一般士族である。

王子から親雲上までは広義における貴族階級であり、それぞれの家は系図(家譜)を持つことを義務づけられたことから、系持ちと呼ばれた。これに対して、平民は系図を持たないことから無系と呼ばれた。琉球國末期、系持ちは総人口の25%超を占めたが、このうち実際に王府に勤めていたのはごく一部である。大部分は王府勤めを待ち望む無禄士族であった。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 中山王としての即位

出典編集

  1. ^ a b 0000096997 屋良朝苗日誌 022 | 沖縄県公文書館
  2. ^ 本田惣一朗監修『日本の家紋大全』 梧桐書院2008年
  3. ^ 建国当時はマジャパヒト王国との交易があったことが知られているが、のムスリム・鄭和の保護下で新興イスラム国家・マラッカ王国が急速に貿易の主導権を奪い、琉球はマラッカ王国と貿易するようになった。
  4. ^ 安里進・山里純一「古代史の舞台 琉球」 上原真人他編『古代史の舞台』<列島の古代史1>岩波書店 2006年 391頁
  5. ^ 最古級の日本全図、室町初期作か”. 読売新聞 (2018年6月15日). 2018年6月15日閲覧。
  6. ^ 小玉正任『琉球と沖縄の名称の変遷』 琉球新報社 2007年
  7. ^ 浮縄の嶽(浮縄御嶽・オキナワノ嶽) | 那覇市観光資源データベース” (日本語). 那覇市観光情報 (2018年6月26日). 2019年4月3日閲覧。
  8. ^ 東恩納寛惇 南島風土記 pp.16 地名概説『沖縄』
  9. ^ 沖縄人は日本人ではない マ元帥の見解発表 - 沖縄親民報1947年7月15日号”. 石川捷治 九州大学大学院法学研究院教授. 1947年7月15日閲覧。
  10. ^ 国王頌徳碑(石門之東之碑文) [拓本]
  11. ^ 為朝伝説と中山王統 - 法政大学学術機関リポジトリ
  12. ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」。
  13. ^ 伊波普猷『琉球古今記』 刀江書院 1926年
  14. ^ 朝日新聞 2010年4月16日
  15. ^ “現代沖縄人DNAの遺伝系統「日本本土に近い」”. 琉球新報. (2014年9月17日). https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-231707.html 
  16. ^ “沖縄の人々、ルーツは「日本由来」 南方系説を否定”. 沖縄タイムス+プラス. (2014年9月17日). https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/44163 
  17. ^ “ゲノム多様性データから明らかになった先史琉球列島人の移動における取材について” (PDF) (プレスリリース), 琉球大学, (2014年9月16日), http://www.u-ryukyu.ac.jp/univ_info/announcement/data/press2014091601.pdf 
  18. ^ “やはりアイヌ人と琉球人の方が本土人よりも遺伝的に近かった - 東大など”. マイナビニュース. (2012年11月2日). https://news.mynavi.jp/article/20121102-a126/ 
  19. ^ “アイヌ民族と沖縄の人、遺伝的な特徴に共通点”. 朝日新聞デジタル. (2012年11月1日). オリジナルの2013年7月29日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130729213058/https://www.asahi.com/culture/update/1101/TKY201210310836.html 
  20. ^ トメ・ピレス『東方諸国記』を読む篠原陽一「海上交易の世界と歴史」- 『東方諸国記』(生田滋他訳注、大航海時代叢書5、岩波書店、1966) はトメ・ピレス著"Suma Oriental que trata do Mar Roxo até aos Chins"(紅海からシナまでを取り扱うスマ・オリエンタル)の日本語訳
  21. ^ ゴーレス再考 - 九大コレクション - 九州大学
  22. ^ このような姿勢は、漢族や非漢族による、中国地域に成立したいわゆる『中原王朝』に(中原王朝から見て)朝貢していた時代の日本、越南、朝鮮、その他諸国に広くみられる態度である。前近代においては、自国および他国の国家の元首の格付けを、対象とする地域や相手によって、都合よく操作することはよくあることである。
  23. ^ 『琉球王国評定所文書』
  24. ^ 琉球國王尚泰ヲ藩王トナシ華族ニ陞列スルノ詔
  25. ^ 琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置ノ件国立公文書館
  26. ^ 真境名安興『沖縄一千年史』記載の「職制創設年表」の一覧(318、319頁)には「表十五人」の職制はない。
  27. ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻、392-394頁参照。
  28. ^ 新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画
  29. ^ 新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』編集工房 東洋企画
  30. ^ 組踊「万歳敵討」。敵役である登場人物が、競馬がらみのトラブルで主役の兄弟の父親を殺害している。
  31. ^ 浮島神社 | 沖縄県神社庁
  32. ^ a b 略縁起|護国寺
  33. ^ 『浦添市史』〈浦添市教育委員会、1983年3月〉231頁
  34. ^ 天王寺跡(テンノウジアト) : 那覇市歴史博物館”. www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp. 2019年4月3日閲覧。
  35. ^ 天界寺跡(テンカイジアト) : 那覇市歴史博物館”. www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp. 2019年4月3日閲覧。
  36. ^ 琉球と袋中上人展 - エイサーの起源をたどる -
  37. ^ 東本願寺沖縄別院
  38. ^ 新城俊昭「琉球・沖縄史」東洋企画
  39. ^ うるま市石川の「キリシタンチョー」など。

参考文献編集

  • 真境名安興『沖縄一千年史』(真境名安興全集第一巻)琉球新報社 1993年
  • 『沖縄門中大事典』那覇出版社 1998年 ISBN 4-89095-101-6

関連項目編集

関連ポータルのリンク

外部リンク編集