赤松 貞村(あかまつ さだむら)は、室町時代中期の武士足利将軍家の近習。容姿端麗で知られている[1]

 
赤松貞村
時代 室町時代中期
生誕 明徳4年(1393年
死没 文安4年(1447年)?
別名 次郎
戒名 福伝寺月理祐心大居士
官位 伊豆守
幕府 室町幕府
主君 足利義教
氏族 赤松氏
父母 父:赤松満貞
兄弟 貞村、女(足利義教側室)
教貞貞祐、娘(足利義政側室)
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略歴 編集

明徳4年(1393年)、赤松満貞の子として誕生。

応永34年(1427年)に本家当主の赤松満祐が出奔する事件がおこり、その政治的解決のために当時の赤松氏庶流・春日部家3代当主である赤松持貞は自害に追い込まれた。その後を継いだのが持貞の従甥にあたる貞村であった。持貞と同様・将軍の近習となった貞村は、妹が6代将軍・足利義教の側室となって男子を出産したことで、義教に重用されるようになっていった[2]。それらを背景に「播磨の守護を満祐から貞村に変更する」という応永34年と同じような噂が囁かれたことが嘉吉の乱発端の一因になった。

嘉吉元年(1441年)6月24日に将軍・義教が西洞院にある赤松邸で殺害された際、貞村も幕臣達と共に参加していたのだが、満祐の嫡子・赤松教康が義教を襲撃すると、その場から逃げ出した。後に幕府軍が満祐を討伐する際、貞村は細川持常が指揮する幕府大手軍に加わったのだが、目ぼしい活躍はなかった。嘉吉元年閏9月には、貞村の所領が闕所とされ、軍功の対象となった[3]。『建内記』嘉吉元年九月二十四日条には貞村が落馬あるいは夜討されたという記述があるが、嘉吉3年(1443年)頃までは活動していたとされる[4]

「赤松諸家大系図」では文安4年(1447年)に死亡したとされている[5]

脚注 編集

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 13頁。
  2. ^ 貞村も妹同様義教に寵愛されていたと『嘉吉記』に記述されているが、実際には貞村は年齢的に義教の男色相手になったとは考えにくいとされている。高坂、201頁
  3. ^ 森、981p
  4. ^ 森、979p
  5. ^ 『赤松氏の史料と研究3』(講談社出版、1986年)、p.67

出典 編集

  • 高坂好 『赤松円心・満祐』 吉川弘文館(1970年)
  • 赤松貞村- コトバンク、『朝日日本歴史人物事典榎原雅治執筆項よりの引用。
  • 森茂暁赤松満政小考 : 足利義教政権の一特質」(PDF)『福岡大學人文論叢』42(3)、福岡大学、2010年、pp. 943-1001、NAID 110007881589