趙戴文
趙 戴文(ちょう たいぶん、1867年11月28日 - 1943年12月17日)は、清末民初の政治家。民国期に山西省を統治した閻錫山の腹心である。字は次隴。
趙 戴文 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1867年11月28日 (同治6年11月3日) |
死去: |
1943年(民国32年)12月17日 中華民国 山西省吉県 (現:臨汾市吉県) |
出身地: |
清 山西省代州五台県 (現:忻州市) |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 趙 戴文 |
簡体字: | 赵 戴文 |
拼音: | Zhào Dàiwén |
ラテン字: | Chao Tai-wen |
和名表記: | ちょう たいぶん |
発音転記: | ジャオ・ダイウェン |
事跡
編集閻錫山の腹心へ
編集貧しい家庭に生まれたが、学問において次第に名を成し、1893年(光緒19年)には科試(郷試の予備試験)で列一等第一を得た。その後、山西大学堂などで教鞭をとる。
1905年(光緒31年)冬、日本へ留学し、弘文学院に入学した。この時に、孫文(孫中山)の三民主義思想に傾倒し、趙戴文も中国同盟会に加入している。また、この時に閻錫山と知り合い、閻錫山の一時帰郷に同行して帰国した。その後、閻錫山が革命派による蜂起を企図すると、趙はこれに参画している。
1912年(民国元年)3月、閻錫山が袁世凱から山西都督に任命されると、趙戴文は山西都督府秘書長に任命された。趙戴文は、閻錫山による山西統治に内政面で貢献した。特に地方組織や教育に取組み、閻錫山の新政推進を支えた。1926年(民国15年)、閻錫山の指示を受けて趙戴文は江西省に向かい、蔣介石との交渉役を務めている。1928年(民国17年)2月、閻錫山が国民革命軍第3集団軍総司令に就任すると、趙戴文は同軍の総参議兼政治訓練部主任に就任した。同年6月、閻錫山の軍が北京・天津方面へ進軍すると、趙戴文は察哈爾都統に任命されている。
国民政府時代の活躍
編集その後、趙戴文は閻錫山の推薦により南京へ派遣された。国民政府中央で蒙蔵委員会副委員長、内政部次長(部長代理)、監察院長を歴任している。蔣介石と閻錫山が対立した際には、趙戴文がその調停役を務め、衝突を回避しようと図った。しかし、最終的に1930年(民国19年)の中原大戦に至り、閻錫山は敗北した。
閻錫山が1932年(民国21年)2月に太原綏靖公署主任として復帰すると、趙戴文も山西に戻り、公署総参議に任命された。そして、閻錫山のために山西省政10年計画を立案し、地方建設を推進している。1935年(民国24年)に閻錫山が反共組織である「主張公道団」を結成し、その総団長となると、趙戴文が副総団長をつとめた。1936年(民国25年)5月、趙戴文は山西省政府主席に任命されている(ただし、省政の事実上のトップは依然として閻錫山であった)。さらに閻錫山が組織した「山西自強救国同志会」で副会長をつとめた。
1937年(民国26年)、日中戦争が勃発し、閻錫山が第2戦区司令長官に任命されると、趙戴文は第2戦区長官部政治部主任となり、抗戦意識の昂揚につとめた。1939年(民国28年)には、中国国民党山西省党部主任委員となる。しかし、この頃にはすでに高齢と病のため、趙戴文は政務・党務を他の者に委ねている。
参考文献
編集- 陳宝珠「趙戴文」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第11巻』中華書局、2002年。ISBN 7-101-02394-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
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