趙 金奴(ちょう きんど、1101年[1] - ?)は、北宋徽宗の嫡出次女。欽宗の同母妹。

経歴

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顕恭皇后王氏の娘として生まれた。建中靖国元年2月9日(1101年3月17日)、永慶公主の位を授けられた。大観2年(1108年)2月、栄福公主の位を改授された。

政和3年(1113年)閏4月、栄福帝姫の位を改授された。政和6年(1116年)2月、栄徳帝姫を再授され、間もなく左衛将軍曹晟に降嫁した。

靖康の変後、に連行され、魯王完顔昌完顔盈歌の子)の側室となった。金の天会8年(1130年)6月、金奴は次婦の位を授けられた。天眷2年(1139年)冬頃、完顔昌が処刑された。金奴は五国城の総監の習古国王と結婚した。以後の動静は不明であるが、『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃まで金で健在であり、習古国王と死別した後は熙宗の後宮に入れられ、夫人の位を授けられた。

伝記資料

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  • 『靖康稗史箋證』
  • 『宋会要輯稿』
  • 『皇第二女特封永慶公主制』
  • 『栄福公主特改封栄福帝姫制』

脚注

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  1. ^ 趙金奴は欽宗の同母妹である。長女趙玉盤を除いて、徽宗の子女は即位後に生まれた。欽宗の生年が1100年5月23日(元符3年4月13日)。『皇第二女特封永慶公主制』によれば、建中靖国元年2月9日(西暦1101年3月17日)、金奴は永慶公主の位を授けられた。金奴は1101年生の早産児か? 欽宗の双子の妹か? あるいは『皇第二女特封永慶公主制』の誤りか? 『宋会要輯稿』によれば、建中靖国元年12月、金奴は永慶公主の位を授けられた。もう一つ、『開封府状』によれば「栄徳帝姫25歳。名金奴。」とあり、1101年冬に生まれれば、1127年春には25歳である。