足助重範

鎌倉時代末期の武将

足助 重範(あすけ しげのり、正応5年(1292年) - 正慶元年/元弘2年5月3日1332年5月27日))は、鎌倉時代末期の武将三河国加茂郡足助庄を拠点とした足助氏の七代目惣領。仮名は三郎。足助六郎次郎貞親(重成)の嫡男。兄に重治、弟に重春。子に九郎重政二条良基との間に犬山城成瀬氏の祖・成瀬基久を産んだとされる娘・滝野らがいる。

概要

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飯盛山城主であった父貞親が、後醍醐天皇の倒幕に参加するために京都に入ったが、共謀者の土岐頼員が事を漏らしたために六波羅探題に露見されて、父は土岐頼兼多治見国長らとともに少数の軍勢で交戦したが戦死、あるいは自刃して果てた(正中の変)。 

弓の名手としても知られる重範は、父の後を継いで元弘元年(1331年)の元弘の乱の際、錦織俊政らと共に後醍醐天皇方に味方した[1]。同年9月笠置山の戦いでは天皇の元へ最初に馳せ参じ、幕府方の大軍を相手に強弓を以て荒尾九郎・弥五郎兄弟を討ち取るなど奮戦したが、笠置山の陥落後に捕縛され、翌2年5月3日、京都六条河原で処刑された(『太平記』巻四「笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事」)。

栄典

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脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 37頁。
  2. ^ 『官報』第1919号「叙任及辞令」1933年5月27日。

関連項目

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