鄧祖禹

中華民国の政治家・軍人

鄧 祖禹(とう そう、1891年〈光緒17年〉 - 没年不明)は、中華民国の軍人・官僚・政治家。滌清[1][2][4]鑄久[4]鑄九[2]孫文(孫中山)派の南方政府、国民政府に属して軍歴を重ねた。後年は中華民国維新政府汪兆銘汪兆銘政権(南京国民政府)に参加した。

鄧祖禹
『満洲紳士録 第三版』(1940年)
プロフィール
出生: 1891年光緒17年)[1][2]
死去: 不詳
(1948年2月28日時点では存命)
出身地: 清の旗 江西省臨江府清江県[1][3][4][5][注 1]
職業: 軍人・官僚・政治家
各種表記
繁体字 鄧祖禹
簡体字 邓祖禹
拼音 Dèng Zŭyŭ
ラテン字 Teng Tzu-yü
和名表記: とう そう
発音転記: トン ツーユー
テンプレートを表示

事績

編集

民国初期の活動

編集

清末に旧陸軍の学堂を卒業したが、雲南陸軍講武堂[1]と湖北武備学堂説[3][5]の両説が存在し、どちらが正しいかは不明である。1913年民国2年)、江西都督李烈鈞の副官となった。1915年(民国4年)の護国戦争(第三革命)でも李に随従して雲南省に赴いている[1][注 2]

1920年(民国9年)、鄧祖禹は広東駐留していた雲南軍司令・朱培徳の配下となる。1924年(民国13年)、広東衛戍司令の地位にあった蔣介石の副官長に異動した。北伐に際しては、程潜配下の兵站監に任ぜられる。1927年(民国16年)、東路総指揮何応欽の下で秘書長代理兼政治部主任となった。その後、江蘇水上公安局第5区区長、滬寧滬杭両路警務処長、国民政府参軍、胡漢民秘書、冀察政務委員会外交委員会参議などを歴任した[1][3]

親日政権での活動

編集

梁鴻志らによる華中での親日政権樹立活動に、鄧祖禹も参与した。1938年(民国27年)3月28日に中華民国維新政府が成立した直後の4月1日、鄧祖禹は内政部(部長:陳群)総務司長[注 3]兼警政司長に任命された[1][3][6]。翌1939年(民国28年)4月1日以降において、鄧は警官学校教育長も兼任したとされる[注 4]

1940年(民国29年)3月30日、維新政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流すると、鄧祖禹は警政部(部長:周仏海)常務次長に任命された[7]。翌1941年(民国30年)8月16日、中央警官学校校長に異動し[8]1942年(民国31年)7月2日には首都警察総監に任命された[9]

1943年(民国32年)5月6日、九江江西省政府が設立されると、鄧祖禹が初代江西省省長に任命された[10]。翌6月1日、同省保安局長を兼ねている[11]。12月、新国民運動促進委員会江西分会主任委員も兼任したが[2]、同月30日、江西省長を依願免職している[12]。翌1944年(民国33年)1月6日、軍事委員会委員に改任された[13]

晩年

編集

日本敗北後、鄧祖禹は蔣介石の国民政府に漢奸として逮捕される。裁判での鄧は、江西省長をつとめていた間に中国側ゲリラ兵106名を日本軍から救出したと主張し、減刑を狙った。しかし、鄧の主張の信用性は裁判官から認められなかったという。それでも親日政権の省長級にしては下された量刑は軽く、翌1946年(民国35年)10月19日の一審(首都高等法院)では懲役15年・公民権剥奪10年の刑を宣告された[5]

鄧祖禹は上訴したが、検察側も死刑を含む厳刑を求めて同様に上訴している。1948年(民国37年)2月28日の二審(最高法院)判決では、鄧は懲役14年へ僅かながら減刑された。なお、1947年(民国36年)8月2日の新聞『申報』は「鄧が官憲から逃亡中」との報道を行っており(記事が事実ならば、二審判決「前」の出来事となる)、鄧の動向を巡っては当時ですら情報が錯綜していた模様である[5]

いずれにしても、二審判決後(1948年2月28日以降)における鄧祖禹の動向は不詳である[5]

注釈

編集
  1. ^ 徐主編(2007)、2377頁は、浙江省処州府麗水県としているが、誤りの可能性が高い。
  2. ^ 明治大学編(1937)、卒業生年度別52頁には、法科1915年(大正4年)卒業生として「鄧祖」という人物が記録されている。本記事の鄧祖禹と同定できる材料が無く、また、東亜問題調査会編(1941)の記述と明らかに矛盾するため、ここでは別人と見なす。
  3. ^ 1939年2月18日、李文濱が総務司長となり、鄧祖禹は警政司長専任になった。
  4. ^ 東亜問題調査会編(1941)、169-170頁は「警察学校」としているが、維新政府『政府公報』第49号、民国28年4月10日及び満蒙資料協会(1940)、1773頁の記述に従い「警官学校」をとる。なお、4月1日に陳群が警官学校校長兼務となったため、それより後に鄧祖禹が教育長に就任したと見られるが、正確な日付は不明。

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g 東亜問題調査会編(1941)、169-170頁。
  2. ^ a b c d 徐主編(2007)、2377頁。
  3. ^ a b c d 満蒙資料協会(1940)、1773頁。
  4. ^ a b c 劉ほか編(1995)、1451頁。
  5. ^ a b c d e 陳(2023)。
  6. ^ 維新政府令、民国27年4月1日(『政府公報』第3号、民国27年4月25日、維新政府行政院印鋳局、1-2頁)。
  7. ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『国民政府公報』(南京)第1号、民国29年4月1日、国民政府文官処印刷局、11頁)。
  8. ^ 「国民政府の機構改革」『国際知識及評論』21巻10号、昭和16年10月号、日本国際協会、116-117頁。
  9. ^ 『日文国民政府彙報』第118号、民国31年7月8日、中国和文出版社、5-6頁。
  10. ^ 「江蘇省政府設置」『同盟時事月報』7巻5号通号204号、昭和16年6月号、同盟通信社、90頁。
  11. ^ 「清郷事務局人事」『同盟時事月報』7巻6号通号205号、昭和16年7月号、同盟通信社、110頁。
  12. ^ 「国府人事」『同盟時事月報』7巻12号通号211号、昭和17年1月号、同盟通信社、108頁。
  13. ^ 劉ほか編(1995)、1062頁。

参考文献

編集
  • 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  • 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第三版』満蒙資料協会、1940年。 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 陳新代「【九江文史】-説説汪偽江西省長鄧祖禹」捜狐網、2023.8.24
  • 明治大学編『明治大学一覧 付・卒業生年度別. 昭和12年11月』明治大学、1937年。 
   南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
江西省長
1943.5.6 – 1943.12.30
次代
高冠吾