鄭 儼(てい げん、生年不詳 - 528年)は、北魏霊太后に仕えた寵臣。は季然。本貫滎陽郡開封県

経歴編集

鄭敬叔(鄭羲の兄の鄭洞林の子)の子として生まれた。はじめ胡国珍の下で司徒行参軍となり、霊太后に見出されて宮中に入り、員外散騎侍郎・直後となった。520年正光元年)、元叉劉騰らによって霊太后は幽閉された。524年(正光5年)、蕭宝寅が西征すると、鄭儼は従軍して開府属をつとめた。525年孝昌元年)、霊太后が政権に返り咲くと、鄭儼は洛陽への帰還を要望して聞き入れられ、再び霊太后に仕えて重用された。諫議大夫・中書舎人に任じられ、嘗食典御を兼ねた。昼も夜も禁中にあって、霊太后の寵愛はもっとも厚かった。鄭儼は徐紇の智慧に頼り、城陽王元徽とも協力して、北魏の政権を操縦した。通直散騎侍郎から散騎常侍・平東将軍となり、武衛将軍・華林都将に任じられ、右衛将軍・散騎常侍に転じ、中軍将軍・中書令に上り、車騎将軍の号を受けた。528年武泰元年)、孝明帝が突然死すると、鄭儼の計画により暗殺されたものと北魏の朝野では噂された。爾朱栄が挙兵すると、鄭儼と徐紇は罷免された。爾朱栄が洛陽に迫ると、鄭儼は郷里の滎陽に逃げ帰った。鄭儼は従兄の鄭仲明とともに滎陽郡で起兵しようと図ったが、部下に殺害されて、その首級は洛陽に送られた。

子の鄭文寛は、孝武帝に従って関中に入り、西魏で没した。

伝記資料編集