野崎城 (河内国)

大阪府大東市にあった城

野崎城(のざきじょう)は、大阪府大東市にあった日本の城

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野崎城
大阪府
野崎城の本曲輪跡
野崎城の本曲輪跡
別名 野崎城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 畠山氏
築城年 室町時代
主な改修者 不明
主な城主 畠山尚順
廃城年 天正4年(1576年)か
遺構 削平地、曲輪
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯34度43分11.52秒 東経135度38分45.829秒 / 北緯34.7198667度 東経135.64606361度 / 34.7198667; 135.64606361
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概要

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野崎城は、慈眼寺(野崎観音)の裏山に築かれた城で、標高114.4mの山頂に本曲輪の削平地を構築した。また飯盛山の東の支脈の突き出した場所で、平地が狭かったことから、交通の便、天然の要害で古くから戦略上の要点とされてきた。

慈眼寺から飯盛山城に向かう登山道にこの野崎城が位置する。

沿革

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河内国守護畠山氏の内紛の際、畠山尚順が立てこもる野崎城に畠山義豊が攻めた、という記述あるのみで、歴史については不明な点が多い。河内国の北半分の拠点であった若江城支城として、守護代遊佐氏の一族が守っていたようである[1]

その後、飯盛山城の築城後には、飯盛山城の出城となっていたと考えられている[1]。野崎城に関する築城、廃城が記載された文献は残されていないが、廃城に関しては、飯盛山城と同時期天正4年(1576年)ではないかと推定されている。

城郭

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山頂に本曲輪を設け、その東側に10m以上の堀切を配し、本曲輪の西と北に出曲輪、更に西の山麓の傾斜添いに3段にわたる4つの曲輪を設けている。

城跡へのアクセス

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野崎城への登山道入口

脚注

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  1. ^ a b 『大東市史』pp.242f

参考文献

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  • 日本城郭大系』第12巻、大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月。
  • 『歴史散歩道大東』 大東市立歴史民俗資料館。
  • 『大東市史』 大東市教育委員会 編纂・発行、1973年3月

関連項目

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外部リンク

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